福島県教育センター所報ふくしま No.48(S55/1980.10) -001/034page
巻 頭 言
秋 に 寄 せ て
経営研究部長 斎 藤 信 夫
久し振りに晴れ上がった秋空を仰ぎながら,山野を歩むと,私は一種の畏敬の念にも似た感動を覚えます。それは,自然の美しさと宇宙の不可思議さ,そして自分の存在の神秘に打たれて,生命を与えられていることの喜びと畏れとを,しみじみと感じさせられるからです。「生きているということは,実に有り難い。」という言葉が,おのずと出てくるのです。秋は,私にとって,四季の中で最も強く自分の実存を意識させ,自分の存在の根拠について思いを馳せさせる季節のようです。
先日,私は敬愛する友の悲報を知らされました。朝に元気だった彼は,タベには帰らざる人となったのです。秋を迎え,生きていることの有り難さを,身にしみて感じていた矢先だっただけに,死に臨んでの彼の心境を想い,残された家族の方々の胸中を察して,感慨無量なものがありました。兼好法師ではないけれど,「命は人を待つものかは。無常の来ることは,水火の攻むるよりも速かに,のがれがたきものを。」の感一入です。いつ訪れるか予測できない,しかも誰もが避けることのできない「死」に接して,私は改めて「今日」という一日の尊さ,重みを痛感し,「一日一生」の心掛けで過ごさねばと心したのです。
翻って,私たちが預かっている児童・生徒に思いを寄せるとき,この死に関しては,私たち大人と全く同じ状況下にあることを知るのです。子供たちは,明日もまた,間違いなく元気な姿で登校するという100%の保証はありません。教師も子供も,お互い,言わば死の形相の下に存在しているのです。従って,今日の子供たちとの出会いは,二度とない出会いと言うことができます。子供たちは,それぞれ現存在の理由と目的をもち,現存在の必要性と期待を担って,今日も生命を与えられて教師の前にいるのです。それを思うと,今日という一日の教育の営みは,明日を頼む教育,将来のための単なる準備教育だけで終わることは許されないのではないかと思います。その日にだけしかない教育,意味を完結した今日という一日の教育がなされなければならないと考えるのです。
さて,子供たちには,「本来,自ら伸びようとする芽が宿されている。その芽を正しい方向に向け,自ら聞かせるのが教育である。」と言われています。何を,いつ,どのように教えるかということより以前に,子供たちに自ら発動しようとする気持ちを起こさせることが望まれているのです。それは,究極的にはその子の心性に触れるものであり,掛け替えのない今日という一日の生命力ともなるものと考えます。従って,今日,そしてまた明日も,子供たちの心に刻まれねばならないものなのです。それは,ある識者が「感覚を磨滅し,感動もなくなり,成長も止まった,内に燃えるものがない教師は,年齢の如何を問わず,教師の仕事はも早不向きである。」と評した言葉の中に暗示されている生き方から産み出されてくるものであると思います。私は,「一日一生」の思いで,「意味を完結した一日」,「内なる人の絶えざる成長」を求める自分であらねばと願わずにはいられないのです。