福島県教育センター所報ふくしま No.48(S55/1980.10) -032/034page
随 想
オ ラ ン ダ の 鐘
教科教育部 吉 田 伊勢吉
それは,もうだいぶ以前のことになるが,地理の調査のために,矢吹ケ原をかけずりまわったことがあった。そして,昨冬,はからずも再びこの地を訪れる機会を得た。
古くは「なでしこ原」と呼ばれた中島村の滑津原 は県内一の山林用苗木の産地。いまは公害に強い緑 化樹の苗木生産にも力を入れ,緑化木王国づくりを めざしていた。弥栄開拓の【協力拓楽土】の記念碑 や俵井の田子倉記念碑をカメラにおさめ,六軒原の 岩瀬牧場に着いたのは夕ぐれどきであった。
目あての鐘は,牧場の飼料小屋の軒下に吊(つる)され, ややひぴわれたものの,今なお健在であった。
ただ一面に立ちこめた
牧場の朝の霧の海
ポプラ並木のうっすりと
黒い底から勇ましく
鐘が鳴る鳴るカンカンと,これは,戦前育ちの人なら,だれでも一度は口ずさんだ思い出をもつ,ご存知の文部省小学唱歌「牧場の朝」の歌詞である。ひろびろとした大地に,静かに霧がたちのぼる牧場の朝,そんな情景が目の前に浮かんでくるようである。この歌詞のモデルとなったのが,ここの牧場とこの鐘であるという。
この六軒原一帯は,明治の初めまで,広い原野の ままで,人家はほとんどなかった。火山灰土が広く 分布し,水の便も悪く,開発のおくれた土地であっ た。明治9年の初夏,東北巡幸の旅に出られた明治 天皇は,矢吹ケ原一帯の原野を通過する際,側近に 「開拓の方法はないものか」と声をかけられたとい われる。こうして明治13年,鏡石から矢吹にかけて の広い原野が御料地となり,宮内省直営の猟場が開 設され,開墾計画がたてられることになる。明治14 年の記録には,六軒原の宮内省開墾所には係官3人, 農夫15人が開墾事業に従事していたとある。
六軒原の開拓には,欧州式の大農経営法が導入さ れ,近代牧場が生まれた。広大な区画の農場,馬に 引かせた大型農機具,欧州の建築をまねた家など, そこには当時の日本としては異色の農村風景が展開 した。こうして創設された宮内省開墾所は,明治23 年いらい民間への委譲が行われ,ここに岩瀬牧場が 発足する。
ところで,直径60cmほどのこの鐘は,明治43年に この牧場でオランダから乳牛13頭を輸入した際,そ の記念に贈られたもので,牧場に残るオランダ国発 行の牛籍簿がこれを裏づけている。こうしてみると この鐘は,まさに明治期におけるこの地への酪農経 営導入のシンボルであるといえる。
「牧場の朝」の作詞者の考証に興味をもった地元 の医師最上寛氏の非常な努力の結果,作詞者は杉村 楚人冠(朝日新聞記者,天声人語欄の創筆者,昭和20 年没),作曲家は船橋栄吉(東京上野音楽学校教授, 昭和7年没)であることが解明されて話題となった。 これを考証する資料としては,「楚人冠日記」や大 正7年発行の中学国文の教科書の記事などがある。 楚人冠の日記によれば,彼は明治43年,ある画家と ともにこの牧場を訪れ,しばらくここに滞在し,「牧 場の朝」の歌詞を得たとしている。オランダの鐘と 牧歌的な牧場の朝の情景をモデルに,かくしてこの 珠玉の風物詩がつくられたのであった。
さて,明治,大正,昭和にわたって,朝な夕な牧 場で働く人々や付近の人々に時を告げてきたこの鐘 も,年を経て破損もはなはだしくなり,牧場の記念 として事務所に永久に保存されることになっている という。新しく組まれた櫓(やぐら)にこの鐘の二代目が吊(つる)さ れる日も近い。異国情緒を想わせる澄んだ牧歌的な 音色が,遠くまで風に乗って響き渡る日が待たれる。