福島県教育センター所報ふくしま No.49(S55/1980.12) -001/034page
巻頭言
共に学ぶ教師
科学技術教育部長 渡部 博
先日,研究会に参加して4年生の授業「空気と水の体積変化」を参観させていただいた。70℃〜80℃の湯を入れたビーカーに,10℃の水と空気が入った丸底フラスコを入れて「どんなことが起きるか」を,既知を生かし観察をとおして考えさせる学習である。「お湯の中に丸底フラスコを入れたら,どんなことがおこるだろうか。今まで勉強したことを頭において考えてみよう」「お湯の中に入れると水があがってくる」「あがるよ」「出ちゃう」「これが(水のこと)だんだんあたたまってくる」「空気もあたたまるよ」「丸底フラスコもだよ」「じゃあもうちょっとくわしく観察して考えてみようよ」「膨張して水をおして下におして入口から出口に出してくる」「ほかにつけ足すことはないかな」「冷たい水は出るかどうだろう」「そうだよ」「いやあたたまるよ,絶対あたたまるよ」「どうだろう。お湯か冷たい水かは別として出るでいいだろうか」「うん,いいよ(ほぼ全員)」「ところで,空気はふくらむっていうか,みんなは膨張するっていうけれど,この水の線は上にいくだろうか下にいくだろうか」「下に(一斉に)」………と続いていく話し合いの学習に,つい時間のたつのを忘れる思いであった。教師と児童が一心同体となって事象の変化のようすをきびしくとらえていく姿―そこには少しのむりもむだもなく,自分の見たまま感じたままを率直に発表し合い話し合える安定感に満ちたほほえましい雰囲気の授業であった。このことは,教える立場の教師と教えられる立場の児童が,同じ観点から「共に学び共に考えていこう」とする熱意のあらわれであり,そのチームワークのすばらしさに感動した次第である。
学習は,本来個別に成立しなければならないと同時に,学習者にとっては緊張のうちにも学んで楽しい体験の累積でなければならないといわれている。だから個別に学習した成果の個人思考を集団(もしくは小集団)の場で互いに発表し話し合うことが必要になってくるのだが,この際のチェアマンをつとめる教師の意識は「共に学ぶ教師」に徹しなければならないと思うのである。「共に学ぶ教師」こそ,ひとりひとりの子どもを大切にして授業を生き生きとさせる原動力であることを改めて考えさせられたものであった。
理科学習のねらいには,具体的活動をとおして直接経験をさせながら学習活動を展開することが大切であるとのべられている。だから,特に理科の教師は子どもと共に観察し,共に製作し,共に育てたり,共に探したりすることによって,科学的な見方や考え方の身についた子どもに育てることができるのである。
効果的な学習活動が展開できるように,いろいろと条件や環境の整備に意を用いるのも「共に学ぶ教師」の役割である。たとえば,授業の中で子どもが何を学習し何を理解したか,その理解したことをもとにしてどんな問題を発見したか,その問題をどのようにして解決したかを教師側がよくとらえていなければならないということである。つまり,授業の中において,子どもが自分の学習がうまく進行しているかどうかを自分でたしかめられるような評価場面をいくつか用意しておき,そこにおける評価によってさらにどのように学習したらよいか,自分で選択して学習を進めることができるような配慮を忘れてはならない。「良医は患者に学ぶ」と言われる。いいかえると,医者にとって患者は師であるということになる。私たち教師にとっては児童生徒が師ということになる。児童生徒は教師の指導によって成長するが,教師もまた児童生徒を導くことによって育つのである。教師は学習指導や生徒指導のみに終始することなく,いろいろな社会の人々とのめぐり合いをも大切にするとともに,他の社会のことがらも進んで勉強し,これによって教育社会,また,自分というものをみつめて,これを自分の教育にいかに生かすべきかを考えるべきであろうと考える。「共に学ぶ教師」は同時に自らにきびしく立ちむかう教師でもなければならないと思うのである。