福島県教育センター所報ふくしま No.51(S56/1981.6) -001/042page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

佐藤信久所長

善 導 矯 正

所長  佐 藤 信 久 

 さわやかな初夏の風が窓いっぱいに入り,庭木の若葉が風に光る日曜日の朝であった。ある書友から贈られた墨を愛用の硯におろして,私の好きな六朝時代の法帖をながめながら考えたことである。
 唐代の楷書は文字としては調和がとれ,みた目には美しい。いわば完成の美とでもいうのであろうか。しかし粋にすました感じで何となく食い足りない。六朝時代にきかのぼると私にとって魅力ある字がいっぱいである。これは洗練されたものではないが,未完成の,あるいは野性的な美とでもいえようか。一見,偏と旁りのバランスがくずれているようだが,文字全体としてみれば,うまく調和がとれている。アンバランスの中のバランスとでもいおうか。人も好き好きというが,こんなところに魅了されることがある。時折,児童の書いた文字の中に,字形がくずれ,一見ゆがんではいるが,何となく引きつけられる字を見ることがある。そんな時に六朝時代の書を思いおこして,ほほえましくなる。
 さて画期的ともいわれる新しい学習指導要領は,人間として調和のとれた児童生徒の育成をめざして既に告示され,学校の創意を生かし全体として調和のとれた具体的な指導計画を作成するよう要請している。従来批判の強かった知育偏重とか,新幹線教育などと呼ぱれたことに対する反省であろうか,総則の中にも道徳教育,体育に関する指導,高校においては特に勤労体験学習の重視が目につく。ところで調和のとれた人間とは,理想的には知・徳・体のバランスのとれたものということになろうが,これは目標であって,現実には三拍子そろった人間はなかなかいない。能力はあるが実行力に乏しいとか,行動力はあるが,感情にはしりやすいとか,帯に短し,たすきに長しの類が多い。一面,こういうところに人間的な魅力を感ずることも多いのである。
 中国の古典で五経の一つにあげられている礼記(らいき)というのがある。その学記篇に,「教とは善を長じてその失を救ふものなり。」とある。長所は長所として伸ばし,失つまり欠けているものを矯正していくことが教えることだと説いている。善を長じても,失を放置しては片手落であり,しかも調和は保たれない。教育とはまさに善導矯正によって調和のとれた人間の育成であると説く,この礼記のことばを銘記したいものである。児童生徒ひとりひとりは未完成であり,しかも多くの可能性を秘めている。日常のふれあいの中から,子どもたちの善の芽をみつけては,これを伸ばし,欠点をなおしていくことが,教育本来の姿であることを改めて確認したいのである。このことが延いては能力や個性を生かす教育につながるものと思う。
 物的な豊かさの反面,心の貧しさを悲しむ声も多い。ここにもまたバランスの調整が必要である。国立教育研究所の牧先生は「ゆとり」について,部分ではなく全体であり,量ではなく質であり,目的ではなく手段であると解説している。豊かな人間性を育成するという大きな目標に向かって,質的にゆとりをもった教育が,全体として調和のとれた教育になると思うのである。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。