福島県教育センター所報ふくしま No.51(S56/1981.6) -039/042page
〈随 想〉
水 石 道 初 心
経営研究部 吉 田 昭 典
美を学ぴながらも美にとらわれず、素心で探石する味を大自然の中で味わうことのできる探石は自己研修の良い場であり、人間研修の場でもある。探石の魅カはまさにそこにある。
私は美学についても全く無知である。したがって、ここで云々するつもりはないが、水石(盆石)を探石・観賞するには、何かよりどころを持つ必要がある。そこを素通りしての探石・観賞は意味がない。
能阿弥は、義政に仕えてからは唐物奉行として唐物の鑑定と管理をつかさどり、文字通り美の最高権威者であった。その能阿弥の著書に「君台観左右帳記」という室町時代の中国絵画・工芸品の鑑定秘伝書がある。その中で彼はこう記している。「絵は何にても正筆を見候ひて(中略)よく心に入れて見おぼゆること肝要にて候と」と、何でもないことのようだが、真贋(しんがん)を己の眼で勝負をしてきた人でなければいえない言葉である。
福島県のどの河川でも探石は可能だが、中でも、好間川・只見川・鮫川・社川などからは良質の特長のある水石が探石されており全国的に有名である。
さて、いわゆる名石といわれる石の基準とか美的感覚とかは、元来が主観的なものである。一般には「姿がよく、質が硬く、色の冴えた石」とされている。さらに名石の条件に「肌」と「底」を加えるぺきであるという人もいる。自然石の微妙な肌の味わいは、他の美術品では見られない独特のものだし、底の座りがよくて安定感があるのも水石(盆石)には欠かすことのできない要素にちがいないが、よく検討して見ると、「肌」は質の一要素であり、「底」は姿の一構成である。
ところで、これらの諸条件のなかで何が最も重要かということは興味をひくところであるが、「姿が第一」とか「質の良さこそすべてに優先する」という諸説に接しているが、今日では、「石の美というものは、己の眼で、全体としてとらえるべきである。」ということが定説となっている。即ち、石は「三位一体」である。それをいろいろと考察したり、分析したりしているのは、私どもの知性のいたずらにすぎない。「三位一体」とは、「仏は法身・応身・報身の三位にわかれるが、そのもとは一体」という意味だそうである。この言葉の意味するところは、何も「仏」に限らない。名石もまた「一体」であり、姿も、質も、色もすぺて渾然(こんぜん)ととけ合って具現化している。
学習指導要領の基本方針に「知・徳・体」の調和のとれた人間性豊かな児童・生徒の育成を図ると示されている。「知・徳・体の三身一体」こそ望ましい人間像ではなかろうか。
しかし、この世に完全な名石が存在しないと同様に、完全な人間も存在しない。姿の欠点を質の良さで補い、逆に質の物足りなさを姿のすばらしさで消している。調和のとれた人間育成における留意すべき点に共通することではなかろうか。従って、採石や観賞における目の付けどころは、まず、全体を総合的にとらえ、次に各要素を仔細(しさい)に観察し、再び「一体の存在」として正しい格付けをするのが正しいといわれている。
ややもすると、知育の側面から児童・生徒を観察したり、児童・生徒の欠点の指摘によって、全人格を評価するきらいがあるが、児童・生徒の資質や特性を個々に分析し、最後に再び「一体化」して総合的に判断することが肝要であろう。自然石に一つとして同じ石はなく、人間もまた然り、個々の石そのものの持ち味がある。渓流の石・河口の石等自然の環境に適応しながら 生きている 。「水石道初心」、探石行は、私にとって、心のなごむひとときである。