福島県教育センター所報ふくしま No.53(S56/1981.10) -001/034page
巻 頭 言
限 界 内 存 在
経営研究部長 斉 藤 信 夫
我が国における学校教育の歴史は長い。その間,日本人の精神構造は,質的にどれだけ高められて来たか,と顧みるとき,「教育は人にあり」の言葉が頭に浮かんで来る。
人は,よく「教育は人にあり」と言う。しかし,その人がどういう人であるかについては,余り吟味されずに用いられているのではないだろうか。これに類したことが最近特に多く感じられる。例えば,今回,教育課程の基準の改善のねらいにあげられた「ゆとりのあるしかも充実した学校生活が送れるようにすること」における「ゆとりのあるしかも充実した」とは,どのような意味と内容をもつものであるか,その理解は必ずしも一致しているとは言えない。また,学習指導要領で示す「学校においては,…児童(生徒)の人間として調和のとれた育成を目指し,・‥適切な教育課程を編成するものとする。」においても,「人間として調和のとれた育成」とは,どういう具体的な内実をもつものか,その理解は明らかとは言えない。単に「知・徳・体の調和のとれた人間の育成」と言うのでは,従来の全人教育とそれほど変わりばえのしないものになってしまうのである。
このように,一つの言葉のもつ概念内容が明確にされないまま用いられているため,話が進展しなかったり,目的にそった・具体策が立たずに終わることをしばしば経験するのである。
翻って,「教育は人にあり」と言うときの「人」についてはどうであろうか。教育に関する専門的な知識と技術を有する等種々の属性を与えうるであろうが,それらすべての属性の根底に,しかも共通になければならないものがあるのではないか。それは,「自分は限界内存在である」ということを謙虚に自覚している人であると思う。限界内存在とは,有限的・断絶的存在を言う。有限的とは,例えば,我々の認識は事の本質を見極めるのに限界があるということ。それは,「まさかあの子が!」の言葉にもうかがえよう。断絶的とは,例えば,中学校指導書(道徳編)も触れているが,人間を超えたカ 聖なるものとの間に一線があること。また,我々の存在の根拠が自分自身の中にはないという事実からも察せられよう。こういった人間存在の有限性・断絶性を深く自覚したとき,子供たちがもつ弱さ,重荷を自分自身の心の痛みとして受けとめることが可能となる。いわゆる共感的理解もこの次元で成立する。教育せんかなと縦の系列で子供をとらえるのではなく,有限性と断絶性との交点に立って,自分もなお変革されるべき未熟な人間として,横の系列で子供に接する論理が,教育を貫き,教師の根底に据えられる必要があると思う。そのとき,教師と子供とは・互いに異なった発達段階を担った人格同志として向かい合い・交わりの共同体が形成されるのである。この共同体から,子供と共に成長して止(や)まない教師の姿と,安んじて心を開き,自ら生活要求の充実を求めて努力する子供の姿とが熟し,「人の教育」の場が確立されるのである。
限界内存在に徹した自覚が教師の根底になければ,人の教育,精神構造の質的向上は難しいと思うものである。