福島県教育センター所報ふくしま No.58(S57/1982.10) -036/038page

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≪随 想≫

川 柳 雑 感

教科教育部  大河原 博美

 人間が生活しているなかには,大なり小なり誰しも趣味をもっている。趣味にもいろいろあろうが,それは何でもよい。人間は趣味をもっているということで,生活を潤し,人生を楽しく送ることができるだろう。

 私の趣味の中の一つに川柳がある。ところが,川柳というと,なにか俳句と対比して,その価値をうんぬんしがちで,とかく川柳は低俗的なものであるという見方をしているむきが多い。それは,俳句が五・七・五の短詩型の文学として,日本の風土の中で,人々の心をとらえ,発展してきたのに比べ,川柳は俳諧を母胎として生れたとはいえ,滑稽,風刺,穿(うが)ちといった古川柳の域を脱していなかったためではなかろうか。そこで,これを憂え,新しい価値を求めて,先覚者たちによる現実の生活に密着した人間探求を目指す新川柳の運動が生れてきたのである。

 要約すれば,排句が自然鑑賞であり,花鳥諷詠であるが,川柳は人間を,またその生活を諷詠するものと言ってよいだろうか。しかしながら,現在では,俳句も川柳も互いに歩みより,そこにはっきりした一線を画することはできなくなってきているように思う。現に,最近の俳誌や柳誌を見ると,排句とも川柳とも解されるものが多くなってきている。

 川上三太郎氏は,川柳を“天にあるもの,地に生くるもの,人の喜怒哀楽のことごとくを内容としている。”と述べているが,まことに川柳は,俳句にみられる季語や切れ字にとらわれることなく,日常の生活の中にいろいろなモチーフをみつけ,人間を,生活をすなおに深みをもって表現できる。こうした意味で,“川柳を趣味とするとは風流ですね。”などと言われたりするのはあまり歓迎したくない。

 ところで,以前の国語の教科書には,かなりの川柳が載っていて,人口に膾灸(かいしゃ)している作品も多い。

寝ていても団扇(うちわ)の動く親心
南無女房乳を呑ませに化けて来い
これ小判たった一晩いてくれろ
はえば立て立てば歩めの親心
本降りになって出て行く雨宿り
泣く泣くもよい方を取るかたみわけ
ひんぬいた大根で道を教えられ
雷をまねて腹がけやっとさせ

 これらはその一部であるが,なるほどと感じさせられる。しかしいずれも,いわば古川柳の類でありこれが川柳かと理解されるとしたら残念である。

貧しさもあまりの果ては笑い合い  吉川雉子郎
世の中におふくろほどの不仕合わせ   〃
みなし子の独り覚えた笛を吹き     〃
 ※ 貧しかった頃のかの吉川英治の作品である。
 
孤独地蔵花ちりぬるを手に受けず  川上三太郎
子の両手海の広さが言いきれず     〃
廻る陽の無限に春を一つずつ    大谷五花村
有難さ人の世界に陽の光        〃
空しさはくずす積木の愚を重ね   いがり柳王
明日は散る花の命へ風五月     山中鹿之助
立たされた児のポケットで虫が鳴き 村上 柳影
生徒の眼生きてた今日のうまい酒  苗木 秋良
参観日自分の子だけ見て帰り    三浦 涼秋

 よい句は心に響き,心をうつものがある。

ゆく雲を追う少年のただひとり
雑踏が去って独りの海の唄
後手後手の愚かさばかり繰り返し
女教師が諭せばニキビみな素直
狭い視野突かれて気付く凡教師

 私のつたない句の中の一部である。
 とかく,人の世はギスギスして,心の豊かさを失いやすい。こうした中で,人の心をうるおす潤滑油として,川柳を愛していきたいのである。


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