福島県教育センター所報ふくしま No.60(S58/1983.02) -001/038page
巻 頭 言
わたしの中の三つの人格
教育相談部長 折 笠 仙 衛
教育相談の仲間入りをしてまだ日も浅いある日,以前に何気なく読んだ英国の歴史学者トインビー博士の著書を開き,次の文のあることに気づいた。「現代人はどんなことでも知っている。ただ,自分のことを知らないだけだ。」さらに,「現代人は外にばかり眼がむいていて,内には眼がむいていない。」と,以前には,それはど注意することなしに読み過ごした文であったはずなのに,何故か一瞬胸がしめつけられる思いがした。現代の危機の根源は自分を知る努力を忘れていることにあるのでは,と強い衛撃と反省にとらわれたのであった。教育相談の仕事に携わる以前には味わうことのなかった経験のようであり,何か自分の中にも不思議な変化が起きつつあることを知り,おそろしいような,不安な気持ちになってしまった。
ところで,自分を知る努力は何から始めたらいいものであろうか。かなり前にフロイドやユングを読んだことはあった。しかし,その奥深さにおどろき,彼等の中に入ってそれをもとに自分を知るまでにはいたらなかった。それにくらべ,最近読んだ,ジョン・M・デュセイの「エゴグラム」は,自己を知る道案内としてかなりわかるものであった。彼は,アメリカの交流分析の創始者であるエリック・バーンの高弟であり,国際交流分析学会の会長を務めたこともある人物である。
彼等(バーン,デュセイ)によれば,誰でも「自我状態」といわれる三つの人格のようなものを持ち合わせているという。ペアレント・アダルト・チャイルド,つまり,親,大人,それに子ども的な人格である。内在する「親」は,道徳,価値観,偏見などを実際に親(父・母)がしたと同じように感じ行動する親像から伝えられた部分である。これは,当然,より父親的なきびしく批判的なものと,母親的なやさく援助的なものに分けることができる。内在する「大人」は,データーを論理的に処理する,すこぶる合理主義的部分である。内在する「子ども」は,一生を通じて,幼い頃の原始的判断にもとずいて行動する部分であり,より自然のままの子どもとしてわがままにふるまおうとする自由な子どもと,周囲の人や親を喜ばせようとするいい子,順応した子どもとからなっている。
この内なる三つの人格(自我状態)は,われわれの内なる声のようなもので,「活発な決定因子」であり,それをもとにわれわれは,行動を起こしていて,ちょっと注意すれば意識しやすく,意図的かつ,客観的に観察が可能なものである。親の郡分は,「ああしろ,こうしろ。」「ああするな,こうしてはいけない。」などのようなストロークは,常に親から出る。子どもの部分は,「私は自分の欲しいものは,欲しい時にもらいたい。」などという。大人の部分は,感情でなく,事実にもとづいて行動することを好み,「こうすればできるよ。」などという。自分の内側に耳を傾けてみれば,親,大人,子どもの部分の言い分が明確に自分では意識されていなくても,自分自身の気持ちを伝えるメッセージを受けることは出来るものである。すべての人にはその部分として,小さい子どもの部分がある。大人が子どもにかえることも出来るし,子どもが大人になることもある。
来談者のある父親が,息子をなぐりながら,「こうしたいわけじゃないが,しなきゃならないんだ。」と言ったことがある。この場合,これを言ったのはこの父親に内在する三つの部分の誰であろうか。親の部分であろうか,大人の部分であろうか。それとも,子どもの部分であろうか。わたしたちの内側にあるどの部分が支配しているかを認知することは,三つの部分を共に協力させ,さらには,自分自身をより深く見つめるうえでも,大変意味のあることのように思われるのである。