福島県教育センター所報ふくしま No.61(S58/1983.06) -001/042page

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巻 頭 言

「若 さ」へ の 期 待

所 長  舟 山   昇

写真 舟山 昇

 連休の一日,引越し以来1年余,段ボール箱にしまいこんでおいた教育月刊誌を取り出し,ページをめくってみた。すると,その中に,「新任教師の生きがい」と題して,教職についてまだ日が浅い全国の若い先生方のアンケート回答の記事が眼にとまった。25名の先生方の文章からは,一様に,経験が1年にも満たない中で,たとえ実践はささやかなものであっても,厳しい現実に真正面からぶつかっていこうとする真摯な生き方がうかがえ,ほのぼのとしたものを感じた。中でも・北海道のある先生の次の回答に心うたれた。

 「毎日,児童(こども)のことで悩み,あれやこれやとやってはみるが,一向に反応がない。また,いろいろと考えて児童の前にたつのが空しく終る。教師の仕事の生命は授業であり,授業によって児童を変革することのできる教師こそ,専門職として価値のあるプロ教師であろうという自覚に反して、現実には失意の連続である。しかし,こんな繰り返しを続けているうちに,自然に目の前の児童に対して新たな勝負意識が働き,“負けないぞ”とファイトが湧いてくるのである。その勝負もはとんど活路を見出せないものではあるが,それに挑むことによって心の張り合いが感じられるのである。」

 希望と不安の交錯する心境で教壇にたってから約1年,いまは,苦しみの中にも教職の喜こびを見いだそうとして,鋭意,この道ひとすじに歩みはじめた青年教師の姿がほうふつとして浮かんでくるのである。
 この4月,本県では約700名の新採用教員が,緊張と不安の入りまじった気持ちで,一葉の辞令を携え,赴任校の門をくぐった。つまり教師としての振り出しの第1歩を踏み出したのである。そこには,瞳を輝かせた子供たちとの出合いがあったであろう。その出合いは新鮮でみずみずしく,恐らく生涯忘れることのできない感動であったであろう。この感動と胸にともした意欲の灯を失わない限り,さきの北海道の先生のように,時に迷い,時に悩むことはあっても,それを乗り越えていく自信と勇気をよみがえらせてくれるであろう。

 教育の世界には見習いの期間がない。教師生活一年生の新採用教員でも,赴任したその日から,「一人前の先生としてスタートしなければならない。そのうえ,年輩のベテラン教師と同じような力量の発揮を子供たちや親から要求されるという厳しさが問われるのである。そこには,「わたしは新米教師だから,少しぐらいの指導の不手際はいましばらくは大目にみてはしい。・・・」という甘えは許されないのである。
 私は,新採用教員に,「経験からくる力不足は,行動力でカバーしょう。」といったことがある。あらゆる面で年輩のベテラン教師には太刀打ちできない新採用教員でも,一つだけ優れているのは「若さ」であり,子供たちと共に歩む「行動力」であると思っている。そして,この「若さ」と「行動力」は,時には,ベテラン教師の指導力をはるかに超えて,子供たちを引きつけて離さない武器になるのではないだろうか。

 子供たちが帰った夕暮れの教室で,明日の授業のために,「何を,何で,どのように教えるか」教材研究に励む新採用教員の指導には,技術的には未熟なものがあったとしても,子供たち一人一人に伝わる何かがあるであろう。また,放課後の校庭で,子供たちと一緒に運動で汗を流したあと,昇降ロの水道で飲む水は,職員室で飲むお茶にはないおいしさを味わうことができるであろう。このような,教育の仕事に生きがいを求めて打ち込もうとする情熱や,若さならではの行動力・バイタリティを,私は新採用の若い教師に期待したいのである。

 「教育は人なり」といわれる。教師の人間性が子供に与える影響力・感化力は測り知れないものがある。教師になった喜びを,いまは教育への情熱にかえて,日々の実践のなかから教師として自分のあり方をさぐろうと歩んでいる若い先生方の教育は,今日も生きているのである。


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