福島県教育センター所報ふくしま No.61(S58/1983.06) -002/042page

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特 別 寄 稿

学 習 と 人 間 形 成

郡山女子大学短期大学部 教授  長谷川 寿 郎

 教育の荒廃が深く憂えられ,その原因が論議されその責任が追求されている。原因はもちろん複合的で根は深いことを誰でも知っている。責任もまた教育に関係するすべてが,それぞれの立場で責められるべきであろう。われわれ学校教育にたずさわる者もその責めをまぬがれることは決してできない。

 対病的方策の研究と実践も大切であることは言うまでもないが,このようなときであればある程,われわれは,教育のそれぞれの営みを,その本質においてとらえかえし,われわれの教育実践を確かなものにしていく必要がある。この小論は,そのようなこころみの一つであろうとするものである。

 ところで,学習の問題については,所報登載の拙論(32,51)において述べているが,筆者の考え方の基本は変るところはない。したがって,重複するところも出るであろうけれども,いささか角度を変えてアプローチしてみようと思う。

1.学習の人間における意味
(1)学習とは
 現代心理学は,学習(learning)というものを「経験の効果として生ずる持続的な行動変容」として定義する。したがって学習は,人間のみに生ずる現象ではなく,人間以外の動物にもみとめられるものと考えている。これは,山下栄一氏が,その著教育心理学(芸林書房)の用語解説において述べているものの一部の引用である。また時実利彦氏は,「人間であること」(岩波新書)で,学習とは,環境との相互関係からおこる行動の永続的な変化であって,行動を操る神経系の可塑性,すなわち,記憶の仕組みを基盤にして行われる。従って,環境を設定してやれば,下等な動物でも学習は可能なわけである。と述べている。

 山下氏の立場は,現象学的・人間学的であろうとするので,ここに引用したのは,一般に現代心理学では学習をこうみているというにすぎない。時実氏の人間における学習については,次項においてふれることとする。

 それはとにかく,上記の引用は,いずれも学習というものは,動物においてもありうることを指摘している。人間は,動物の次元を包摂している存在であるし,この定義は,人間における学習をカバーしうるものであるということができよう。

 しかしながら,人間は,人間にのみ与えられた自意識に根ざして,自己を形成していく存在である故に,経験といい,環境との相互関係といい・能動的選択的にかかわって自己形成としての行動変容を実現していくのであって,動物のように,環境条件や遺伝条件等に規制され受動的消極的にその行動変容をもたらすのではない。すなわち,人間は,動物レベルの学習をつつみながら,上述のように学習を行うことにおいて,学習を人間の学習とするのでなければならない。

 だが,人間の学習という以上その行動変容は,人間のあり方として,望ましいものでなければならないことは言うまでもない。心理学的定義では,行動変容が生起すれば,学習されたことになるのであって,それが人間として望ましくないものであっても,さしつかえないということになる。われわれの立場一教育の立場においては,そのようであることはできない。人間として望ましい行動の変容とおさえなければならないことも当然である。

 ところで,山下氏は,またつぎのように述べている。1 最も広義には,学習とは,何らかの経験の効果として,生活体の内に,行動への用意性の変化が生ずることを意味する。この意味での学習は一つの過程であり,この過程は,外部から直接とらえられるものではなく,行動の変化を通して推論されるものである。とくに人間にあっては,行為する人間自身が,そのような変化の徴標となる体験をもつこともある。2 「学習」の限定した用法としては,知識なり技能なり,何らかの価値ありと考えられる資質の獲得を目標としていとなまれる。勉強,れんしゅ


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