福島県教育センター所報ふくしま No.62(S58/1983.08) -029/038page
≪随 想≫
「数」について
科学技術教育部 吉 田 陽 一
5月の日曜日,1人事らしをしている74歳の伯母宅を訪れた。伯母はしきりに口を動かしながら,白つつじの花を摘んでいる。花の盛りが終ると,来年もよく咲くようにと,一つずつ数えながら花を摘むのが伯母の毎年のならいである。2本のつつじは実に見事な花を咲かせる。
この伯母は何をするにも「数」を数える。草むしりの時は,休憩のめやすに数えているし,壁に巣をつくった地蜂をそうじ機で吸いとる時も,ストンという音をたよりに一匹一匹数えていた。愛犬ののみをとりながら数えて,毎日記録したというから愉快である。実にユーモラスな人だと感嘆してしまう。 さて,伯母の場合は極端な例であるが,日常生活に目を向けると,「数える」という行為はかなり頻繁に登場する。印刷物を数える。石段を数える。集会の出席者を数える。等々。更に「数える」という行為から発展させて日常生活と「数」の関連を考えると,我々の生活は「数」を中心にまわっているといっても過言ではない。時間の表示をはじめ,現代社会において「数」は実に重要な存在である。
「今年の花は何個でしたか。」
「あちらの木は1032,こちらは756,こっちの木には,折れた梅の枝がかかって,枝が何本かとれてしまったから花も少ない。せめて765だと覚えやすかったのに。」などと言っている。このような「数」及び「数の概念」を人間はいつごろから会得したのであろうか。「数」を書き表すもっとも素朴な方法は,印をつけることであり,これは,古代エジプトや古代ギリシャなどで数を表す文字が登場したころよりも,ずっと昔から行われていたに違いない。そして幼い子供のように指を折りまげて表現したり,伝達したりすることは,それよりももっと以前から行わわていたことであろう。
しかし,一方で「数の概念」はというと,英国の数理哲学者であるパートランド・ラッセル卿の名言の一つに『ひとつがいの雉と,2日が,いずれも,2という抽象的な数の例であることを発見するのに人類はきっと長い年月を要したことであろう』という言葉がある。また,こんな話もある。『未開の人種に3人と2人を一緒にすると5人になることをやっと教え込んだうえで,3本のバナナと2本のバナナを一緒にすると何本になるかと尋ねると,もうわからない。いま教えたじゃないかというと,3人と2人で5人になることは習ったが,3本と2本で何本になるかはまだ習っていない,と不服そうに答えた。』というのである。このように,我々が日常何気なく用いている「数」は,個数,本数,日数,人数などに共通するレベルの高い概念である。3人+2人=5人と3本+2本=5本が同じであることがわからない人種がいたり,理解できる数は1と2だけで,3以上はまとめて,「たくさん」といい表わす人種が現存するという話などを聞くと,人類が「数の概念」を会得したのは,数10万年の人類の歴史からみれば,どく最近なのであろうか。ともあれ「数」は人間社会にどっしりと根をおろし,日常生活をスムーズに回転させ,文明の発達に大いに寄与している。例えば,日進月歩で急速に進展している情報化社会,その担い手であるコンピュータも,2進数という「数」が基本になっている。このように現代において「数」は不可欠の要素といえる。
しかし,何事にも明暗があるように,「数」にも光と影がある。物事をわかりやすく明確にするのが光とすると,影はその明確さの故に使い方を一歩まちがえば人の心をまどわすこともありうるということである。例えば,比や率を計算する場合,何の何に対する比や率であるかが一番重要であるが,そこにミスが潜入すると,当然誤った結果になるにもかかわらず,我々は,正しいかのような印象を受けてしまう。説明された数字が比や率である場合には,細心の注意を払いたいものである。また,次のようなおかしな話もある。『風邪が流行して,A組では7名の児童が欠席,B組では1名が欠席した。そこで,B組の生徒はA組より7倍丈夫に鍛えられている。』とか。
正しい日本語について取りざたされている昨今であるが,「数」についても,正しい用い方をすると同時に,「数」の意味するところを正確に読みとっていきたいものである。