福島県教育センター所報ふくしま No.63(S58/1983.10) -001/042page

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写真 須永 英次

働くこと“いまとむかし”


−お し ん考−


経営研究部長   須 永 英 次


 “おしん”ブームといわれている。そういえば,いつか新聞に“おしん”がテレビ小説史上最高の視聴率を記録したと報じていた記事があったように思われる。その反響にこたえるためだろうか, 先々月おしんの少女時代を再放送していた。他のテレビドラマとは違った何か心惹かわるものを感じながら数回視聴した。それは,貧しさの中で育ち,懸命に生き,家族や周囲の人々への豊かな愛情を抱きながら,ひたすらに力強く歩み続けた一人の女“おしん”の物語に共感を覚えるからかもしれないし,また舞台地となっている最上川周辺の雪景色,そして交わされる話し言葉等が東北地方特有の郷愁を感じさせるからかもしれない。あるいは明治・大正・昭和の時代の流れの中で,家族のために辛酸をなめて働きとおしたおしんの生きざまに,明治生まれの自分の母にもあったであろう苦労の数々が一つ−つ今しのばれるからかもしれない。原作者橋田壽賀子氏は,NHKドラマガイドの中で,「おしんには特定のモデルはいない。しかし,明治から現在に至る80余年の時代のうねりを背景に生きたおしんという名もない女性の一生を描くことで,現代に生きる私たちの指標を探りたい。」といっている。そして,視聴者に,昔と今と苦労のかたちや働き方は違うけれども,現在の私たちでは到底できないと思われる苦労をしてきた明治生まれの母たちの逞しさの中に,今,豊かさ故に見失ないがちな大事なものがたくさんあることに気づいてほしいと訴えている。

 教育課程基準の改善のねらいの第一に,「人間性豊かな児童生徒を育てること」があげられ その中で正しい勤労観を培うことが強調されている。小学校における働くことや創造することの喜びの体得から,中学校における勤労観,高等学校における職業観の育成へと,勤労にかかわる体験的な学習の累積的一貫性が改善の重点事項に掲げられている。“勤労”この問題が,何故に今さらこのような勤労にかかわる体験的な学習というような形で,このたびの教育課程で強調されなければならないのであろうか。

 広辞林によれば, 勤労とは,「つとめてほねおること」,「勤めの労苦」のことであり,「勤め」は「力を尽して行う」,「気が進まないのをがまんして行う」こと,「労苦」は「身を苦しめること」,「ほねおり」のことである。したがって,勤労とは,「気が進まなくともがまんして力を尽してはねおること」であるといい直すことができよう。このような考え方にたつならば,勤労自体が自己形成・人間形成の営みであり,勤労を通してこそ自分自身の能力が最大限に発揮でき,生活を維持・発展させる創造の喜びを体得し,ひいては社会生活の維持・発展に寄与できると考えられるのである。

 いま,子どもたちに限らず大人も含めた社会全体に,「つとめてはねおること」から逃避しようとする風潮があるのではないか。できるだけ労少なくして楽な暮しを求め続ける風潮が,一見豊かそうな現代社会をつくりあげ, これが子どもたちの勤労意欲を喪失させ,怠惰な気持ちをも芽生えさせたともいえるのではないか。他から押しつけられる労苦には,不平不満や苦痛がつきまとい,真の勤労の喜びは期待できないかもLれない。しかし,怠惰や安逸な気持ちに打ち克つためには習慣の力をかりなければならない。勤労も習慣化する過程で労苦が喜びに変わるものであろう。子どもたちの自発性だけを重視していては,気が進まなくともがまんまでして力を尽してほねおろうとする真の勤労意欲は生まれないのではないかと思うのである。

 勤労にかかわる体験的な学習について, 教育現場の各学校では特色ある実践が行われている。しかし,いわゆる学校行事の「勤労・生産的行事」にとらわれすぎ,その結果,活動は単発的で,実施は一時的であるという反省も聞かれる。学校の教育活動全体を通じて,勤労尊重の精神を啓発し,はねおることの苦しさ,尊さを体験させるような地についた実践が更に望まれるのである。………今やの子どもたちがおしんの少女時代の苦労から,生きる時代はちがっても何かを学びとる心をもってほしいと願いながら。


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