福島県教育センター所報ふくしま No.66(S59/1984.6) -019/038page
受講者の感想
光明を見い出した道徳教育
−小学校道徳講座を受講して−
会津若松市立日新小学校教諭 福 島 キヌイ
「徳なき知育は知恵ある悪魔を作るなり」。20数年前,ペスタロッチに憧れ教師になろうとした私に敬愛する師のくださった言葉です。
近年,心の冷たくなるような胸痛む教育上のニュースがとびだすごとに師の言葉が切実に胸にうずき,心の教育がいかに大切かを再認識させられています。
道徳研究会などにはすすんで臨み,何でも吸収しようとするのですが,何か得心のいかないものがあり,そうかといって己の道徳指導に自信や信念めいたものがあるのかといえばそうでもなく,空中に漂う綿毛のような頼りない問題だらけの指導でした。
夏休み中,小学校道徳講座を受講する機会を与えられた時も日頃の悩みを忘れ,この暑さの最中“固苦しい講座を”と一瞬頭をかすめるものがありました。が,参加してみてセンターの先生方の見識高い企画と研究深い講座,真摯な態度に接し,浅はかな自分が恥ずかしくなりました。
開講式に続いて,初めての講義,それは,中央で活躍されている石川倫男先生の「全人的なかかわりの場としての道徳指導」でした。いつも心の中でもやもやしていたテーマではありませんか。難しい専門語や修飾語を省き,道徳教育の真髄をはっきり示され,具体的でよくわかり,深い感銘をうけました。児童にわかる喜びを与えるとか充実感を持たせると言うのは,こんな事だろうかと思い改めて「自分は,これまで児童側の気持ちをここまでひき上げたことがあったろうか」と反省させられました。紙面の都合で講義内容を割愛しなければならない事は残念ですが,その一部を紹介します。
価値の内面化について 宝探し説 , 散水車説 , 円錐説 を図式化し,道徳的実践力と道徳的実践のかかわりは互いに密接であることを裏づけなさいました。
<円錐説>
No.1 No.2 私たち現場では,往々にして道徳的実践力と道徳的実践をあまりにもはっきりと切り離しすぎ,どちらか一辺倒で道徳教育を論じていたのではなかったかと考えさせられました。道徳の時間と学校生活全般の生活指導,更には教科指導とのかかわりは,車の両輪と同じで,両方ともいかに重視すべきかを広く仲間に伝える事が受講した者の務めではないかと思いました。
このあとセンターの先生方の研究のエキスを具体的に講義していただき,それらをもとにしての演習は意欲が盛り上がり,時間のすぎていくのが惜しまれるほどでした。
講座の後半,千葉大附属小副校長の飯田稔先生の「実践力を育てる道徳の時間の指導」は,石川先生の講義と対をなすかのようにかかわり合っていました。両先生の話術の巧みさや人柄もさることながら,やはり“道徳の本物”を見きわめられていると言うところに魅了され洗脳される思いでした。
「子供を知り,自己を知る。」この両者で共感するものがあってこそ「人間の生き方を知る」ことができる事を指摘なされました。人は個別的であり関係的である。したがって人と共に生きる事,即ち調和すること。これを料理の“あえ物”にたとえられた事は,まさにそのものずばりの感でした。私は子供を知る事には努力していましたが,己を知ると言う謙虚さ,己のもろさに気づかないため,児童と共に心をうたれ,共に悩み「倶学倶進」することが少なかったようです。
年間35週,うまくいく授業もあろうし,いやになって投げだしたくなるような授業があるかも知れませんが,巧拙にこだわらずとにかく年間35過,毎週1時間を着実に行っていかなければと思いました。
この講座のおかげで“道徳の本物”に触れさせて頂き,自分の行く手にかすかな光明を見い出すことができたことは大きな収穫でした。今,私は教師になった時の初心にかえり,子供を教え育てる身の重大さを自覚し,さわやかな気持ちで日々努力しています。ありがとうございました。