福島県教育センター所報ふくしま No.67(S59/1984.8) -001/038page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

巻 頭 言

次長兼教科教育部長 須 永 英 次氏

授 業 −「見せ合う勇気」

次長兼教科教育部長  須 永 英 次

 教育研究法講座の講義資料を得る目的で,授業分析に関する何冊かの文献・資料をひもといた。その折,全国教育研究所連盟刊行「学校における授業研究」の中にみた「授業研究の実態と課題」の一つの調査結果に強くひきつけられた。それは,「あなたは,自分の授業をよりよくするために,どのような研究・研修の方法が役立つと思いますか。」という問いに対し,調査対象の小学校・中学校教師が,共に,「 自分の授業を見てもらうこと 」,「 他人の授業を参観すること 」を第1位・第2位にあげており,いずれも60%以上の高い回答率を示し,第3位以下の項目とは大きな隔たりを示しているという点である。

 私は,常々,教師が自らの授業を反省し,自己転換を図るには,教師同志が授業を見せ合い,相互に批評や助言を求め合うことが大切であり,これを通して,実践上のいろいろな問題解決の手がかりや,時には,自分の授業について改善しなければならない本質的なことをも発見することができると考えている。このような私の持論が,調査対象の先生方の考えと相通ずるものがあると思われたこと,そして,何よりも,授業を見てもらうこと,参観することの意義を教育現場の多くの教師が理解しているというその姿勢に共感を覚えたのである。

 自分の授業を見てもらうことは,厳しい助言を求めることであり,大きく言えば,自分の授業を評価してもらうことである。人間はだれでも虚栄心や自負心をもっており,少しでもいいところを見てもらいたいと思うのが本心であると思う。それだけに,謙虚になってありのままの姿を見てもらい,厳しい批評を求めるということは,言葉としては理解できても実際には 勇気 がいることであろう。また,他人の授業を見せてもらうということは,第三者的な見方ではなく,自分の授業の実際をふまえて見るということである。参観した授業の中からさまざまな問題点をあげて批評するということは,すべて自分に返ってくるということであり,自分が授業を見てもらう以上に厳しく, 勇気 がいることである。それ故,授業を見せ合うことによって自己転換を図るには,この勇気こそが望まれると考えるのである。授業を見てもらう限りは,虚心坦懐に指導や忠告をうける雅量をもたなくてはならないだろうし,授業について厳しい批評を聴くことは,時には辛いことであっても,あえてそれを望むという探求心が必要なのではないだろうか。一方,授業を参観しての批評は,事実に即して行われなければ一般論・空論になりがちである。授業のなかからのさまざまな事実から何を選び,どのように意味づけをするのか,また,どのような点を学び,どのような点を忠告しようとするのかを自分の授業の実際と関連づけながら参観するのである。他人の問題を自分の問題としてとらえながら参観するのであり,決していい加減には見られないはずである。このように,授業を見せ合うということは,お互いに厳しさに堪えながら,授業を磨き合うことであると思うのである。

 教育の中核は授業であり,授業こそ教師の生命であると言われる。それ故,授業は教師にとって何よりの生きがいであろうし,子どもたちにとっても,自分の心に深く刻み込まれるような一時間の授業は,学校生活の中で何ものにもかえがたい生きがいであろう。教師は,一人一人の子どもに生きがいを感得させ,自らも生きがいを満喫できるような授業を追究して日々努めている。一人の教師の授業の実践は,それが刺激となって,他の教師のよりすばらしい授業の実践を創造させていくものであり,このような力を出し合い,磨き合ってより高いものを求めていく実践こそ,生きがいのある授業の追究そのものであろう。授業を見せ合うこと,それは教師一人一人の勇気にかかわることばかりではなく,共に励まし,助け,時には厳しく反省を促し合おうとする教師集団にかかわることかもしれない。

 

前任校における“教室訪問−授業めぐり”を想い起こしながら


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。