福島県教育センター所報ふくしま No.73(S60/1985.10) -001/038page
教師に求められるもの
経営研究部長 菅 野 家 作
いつになく暑い真の日のことである。いつものように福島駅で足早やに上り列車に乗り換えたが,発車までにはまだ20分ほど余裕があったためか、ほとんどの座席が空いていた。私は,誰もいない車両中央部の席に腰を下ろし、車内の冷房に満足しながら窓際にもたれてゆったり一息入れていた。時の経過とともに乗客の数も増し,やがて私の前の空席にも汗をふきふき駆け込んできた二人の婦人が腰を下ろした。この二人、かなりの知り合いらしく、どちらからとはなしに.周囲に気がねなく会話を交わし始めた。間もなくベルが鳴り,列車は定刻どおりホームを離れ,スピードが加わるにつれてそのうなりが高まってきた。その音響に合わせるように二人の会話にも熱がこもってきた。はじめのうちは、その日の暑さへの不平を並べているのだくらいに思っていた私は、目を閉じたり開けたりしながらうとうとしていた。そのうちいつとはなしに、二人の会話が教師批判になってきたことに気付き、はっとしながらもこれはまずいことになってきたなと心がさわいだ。会話の主役は少し若い方の婦人であったが,その話の中味はおよそ次のようなことだった。
一学期末,小学校低学年の子どもの授業参観の折,先生が子どもたちに「わからないところは家でよく勉強してきなさい。」と申されたので,あとの学級懇談会のとき,先生に「学校で子どもがよくわかるまで教えてください。」とお願いした。ところが,先生から「お母さん方だって,小学校低学年の学習内容ぐらいは教えられますよ。」と言われた。「それは家でも教えられはするが,私は先生のように免許状を持っていないし,給料ももらっていません。」と申し上げてきたというのである。 更に話は続いて.この数日前の夕方のこと,近所に住んでおられる同じ学校の先生から,「お宅のお子さんは学校帰りに道草をくって遊んでいました。帰ってきたら注意してあげてください。」と電話があったが,こんなとき,「先生も同じ方向に自家用車で帰宅されるのであるから,途中でひとこと直接子どもに呼びかけて,先生の車に乗せてきて欲しかった。」というのである。
そして,「いまの先生方には,一人一人の子どもの教育に真剣に取り組み,本気になって教え導こうとする気力があるのだろうか。先生の人格に疑問を感じる。」というのである。
会話は教師への不満の吐露に終始して,二人の婦人は途中の駅で降りた。このような会話から,教師とその教育の是非について論ずることは短賂にすぎるが,私たち教育に携わる者は,これをひとつの警鐘として受けとめねばなるまい。最近私は,教職に生きる者としての「気力(バイタリテー)」や「専門牲(スペシャリテー)」,「創造牲(オリジナリテー)」,「人格(バーソナリテー)」など,いわば,教師としてのV.S.0.P.を重視しているが,この婦人の話も.結局のところは,これらのことを教師に問いかけているように思えてならない。
とにかく・教職にある私たちは・子どもとその親や地域社会から,よりよく指導してくれるであろうと期待され・信頼されている。したがって、いつでも,どこででも,教育者としての使命感と深い教育的愛情を基盤として,広い一般的教養はもちろんのこと、職務を遂行するに足る必要にして十分な専門性を持つことが厳しく求められていることを自覚しなければなるまい。
教師への信頼・期待が裏切られた二人の婦人の会話をもう一度かみしめ,自己を省みながら家路へ向かった。