福島県教育センター所報ふくしま No.77(S61/1986.8) -001/038page
巻 頭 言
思 い や り
次長兼学習指導部長 菅 野 家 作
蒸し暑い真の日の夕方,数人の仲間とある店を訪れた。少し古ぼけた薄暗い畳の間ではあったが,早速テーブルを囲んで座を占め,冷たい飲みものを注文した。すると,多分大正生まれと思われる店の主人が、冷蔵庫からジョッキを取り出し,それに樽の飲みものを満たして運んできた。これには一同びっくりした。どうして容器を冷蔵庫に入れておくのかを尋ねてみたら,理由は簡単であった。「冷たいものを,より冷たく召し上ってもらうためだ。」と言うのである。それは,確かに冷たく,格別の感触と味わいであった。
一口,一口,渇いたのどを潤しているうち,この冷やしてあるジョッキから,店の人たちの思いやりが,じ−んと伝わってきた。店内を見回すと,設備も備品も以前より使い古したものだけで,地味なつくりであった。そこに働く人たちも,派手なところは少しもなく,実年の年頃の主人と,まだ幼な児のいる若夫婦だけで,地道に暮らしているように思われた。それにもかかわらず,不特定の客へのサービスとして,これほどまでに温かい思いやりをもって仕事に当たっている誠実な姿に感心させられたのである。そう思ったとき,ふと,わが身に及ぶ教師の営みのことが思い重なってきた。
教師の営みも,正に人を相手とする対人サービス業であるとよく言われる。しかし,他の対人サービス業とは大きな違いがあり,教師の担当するその対象は,通常,特定少数の子どもたちである。しかも,その子どもたちに対しては,比較的長期間にわたって.継続的なかかわり合いをもつものである。商売上であれば,客が店や人を選ぶこともできるが,学校教育では一般の子どもたちは,学校や教師を選ぶことはできない。このように考えてみると,一人一人の子どもの指導に当たる教師の責任は重く,日常の教育活動においては,教科学習担当者であるとともに,より人間担当者としての厳しい要求がなされていることを自覚せねばならない。そして,その根底には,子どもたちへの絶えざる思いやりのある働きかけや心くばりがなければなるまい。それが,具体的には,授業などでの,「子どもたちに,よりよくわかってもらうため」の教材研究とか事前準備,あるいは,指導上の創意工夫とか配慮事項などとなって具現化されるものであろうが,何にもまして,教師の「この子どもたちのために,先ず,生き方を示そう」とする生活姿勢そのものが大事であると言える。まだ幼ない子どもたちの成長・発達と人間形成への影響力が一層大きいことを思えば,それは教師の後ろ姿からもにじみ出る温かな人間味であり.目には見えない「隠れたカリキュラム」であるとさえ言ってもよかろう。
寒くなったら,また,あの店を訪ねてみたいと思う。湯どうふでも注文したら,こんどはきっと程よく暖めておいた取り皿としょう油を出してくれるかも知れない。それが楽しみである。