福島県教育センター所報ふくしま No.81(S62/1987.6) -001/038page

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皆川郁夫

巻頭言

花と人と

所長 皆川 郁夫


 五月、まさに花の季節である。薫風のなか、百花りょう乱、桃、八重桜、リンゴなどの花が、信夫平野全体を包むかのようである。この花の季節に、きょうは当教育センターにカンナの球根が届けられた。届け主は、この近くに住む小学校の先生である。かつて彼が友人と共に当センターの研修に来て、花のない淋しさを感じ、宿泊研修の先生方に花の贈りものをしたいと思案し、始められた善意である。
 きけば、学校緑化のために作ったカンナの球根をセンターに送るために増やして、7年以上も植え続けてくださったという。また、カンナの球根は、そのままの越冬では、凍ったり、腐ったりして、発芽の確率が少なく、よい球根を得るためには、家屋内の”むろ”に収納して、温度の管理がたいせつだという。改めてこの先生の植物と人に対する思いやりに感謝したい気持ちでいっぱいである。
 思えば、百花りょう乱の春も、こうした人によって、咲かされている花の演出にまつところが多いことに気づく。植物や花は、それなりの素質を持つが、その素質が、またその機微が、人の心の”ひだ”によって支えられ育てられる側面が多いことも事実のようである。
 私も園芸や、盆栽が好きである。手がける種類は、松・さつき・山野草など、さまざまだが、昨年までは勤務地が遠く、手入れが十分ゆき届かず、特にたいせつなさつきなど、いく鉢か枯らしてしまった。今、枯れかけた半死のさつきに詫びながら、幹に”水ごけ”を巻き、不要な蒸散作用を防ぐように、ビニール袋等をスッポリかぶせて、スプレーで噴霧するなど、蘇生を願い必死の努力を続けている。しかし、どうもよみがえりはむずかしいかも知れない。ところで、私の松の師匠は、福島在庭坂に住む、83才の老翁であるが、松の手入れを指導するなかで、どんな松を持参しても松そのものを”けなす”ことはない。”どんな松でも視点を変え、手を加えれば必ず見るべき姿になる”。宮中の松の手入れをした名人であるだけに、経験に照らして味な諺などを口にしながら、松の剪定や、針金掛けをなさる。”昔から農場管理も、こやしよりは主人の足あと”と言うが、愛情をもって面倒を見てやれば、必ず手をかけただけ立派に応えてくれるものだ”植物育では教育と全く同じで、駄目な松や、植物はないが、駄目な園芸師がいるだけだ”とおっしゃるが、まさしく育てる仕事は皆同じであることを痛感する。
 そして、まさに入院中で仮死状態のさつきを見るたびに自責の念やるかたない。教育者たる自分に置き換えてじくじたる思いである。
 思えば、同じ意味のことを、県内高校の音楽の教師の”指揮法”の研修の合い言葉にして、必死に集中した時期があった。その甲斐あってか、郡山のW先生始め、本県のどの団体が出場しても、その水準は、日本一を持続している。人の場合、三無主義ではないが、目的意識のない状態は、成長過程では、まさに停滞であり、植物にたとえれば仮死の状態とも言いうる。”自立できる基礎、基本を身につけて芽を出し始め、自己教育力をを身につけて、主体的に学ぶ意志・態度・能力を身に修め、「自らを高めること」と、「他を高めること」を総合的に結び合わせる主体として成長し、「生き方の実践的課題に取り組む力強さが、本県37万人の幼・小・中・高校生に根付くのはいつの日か・・・・・・・・・。この課題に取り組む本県、2万2千人の先生方が、その道のプロとして、よき”園芸師”たることは、たいせつなことであろう。それにしても、松の師匠の言葉が身にしみる花の季節ではある。


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