福島県教育センター所報ふくしま No.86(S63/1988.6) -001/038page
巻頭言
カ ン バ ス を 染 め る 色
所長 皆 川 郁 夫
今年も学校では,新しいスタートを切り,初々しい新入生を迎えた。この新しい命は,例えれば純白なカンバスであろう。このカンバスをどのように彩どるか,染める色はもう決っているのであろうか?
ご存じのように,わが国では,内閣直轄の教育の審議機関が作られ3年間の審議を終えて21世紀に生きる青少年のための教育のあり方について指針が示された。この答申の内容は膨大で多岐にわたるけれども,我々教育の最先端をあずかる教師にとって,いわばカンバスを染める色の材料が提供されたもののように思われる。この答申が,国民のコンセンサスを得る目的があるにせよ,まず,教師自身この中身については十分熟読玩味する必要があろう。教師のアイデンティティの確立や,自己変革が強く求められているなかで,教師自らが,押しよせる多様な変化の波に呑まれて方向を失っては,教育改革も,実りのない空論に終り,カンバスも美しく仕上がらないのではあるまいか。
もはや,一刻の猶予もならぬところである。答申のなかでは,激しい経済構造や生産技術,情報化や国際化などの変化の波に,主体的に対応できる力強い青少年の育成に主眼がおかれており,“広い心,健やかな体,豊かな創造力”の大きな目標が示され,更に「生涯教育体系への移行,基礎・基本の重視,個性の尊重等」今後教育実践上の大切なキーワードがあげられている。この答申の審議の過程で,最も評価すべき成果は,家庭・学校・社会それぞれの教育機関の果たすべき役割分担が,大枠ながら決められ,国民のコンセンサスができたことである。
知的な側面抜きの学校教育はあり得ないとするならば,各方面で話題になっている本県の学力問題は,学校教育の根幹にかかわることだけに避けて通れぬ問題であり,本県すべての教師の本質が問われる“正念場”である。そのレベルアップについて周到な努力が望まれる。それにしても,一方的な教師の押し付けでは解決できず,“ねらい・ねがい・ねばり”をもって.「自分が・自分で・自分を教育する,いわゆる“自己教育力”」の育成は,幼稚園から学校教育挙げて,しかも,あらゆる教育活動の分野で育成が望まれる。
当教育センターでも“自己教育力の育成に関する実践的研究”というテーマに2年がかりで取り組み,このほどその完成をみて,研究紀要として県下全校にお配りしたところである。中身については,全国的に話題を呼び,また,その手だては.実践協力校で,成果が上げられている。また,世界各国でも,教育の「指標」が問われており,何が教育の「ねらい」であり,「ねがい」であるのか?よもや,わが国で取り沙汰されている“偏差値”のみではあるまい。そうした“評価”という視点からも本研究が,見直されているのでご活用ねがいたい。
“卒啄同時”という言葉がある。これは雛がかえる時,親が雛の成長をみながら絶妙なタイミングで殻をつつき,誕生を手助けすることを表現した「茶道」の言葉である。生徒啓発の動機は知的な面とともに,情意的な感性にせまることが大切であり,教師の“五体”による指導過程のある種の“感動”ではあるまいか。その“感動”を生む動機は,教師自らの人間として,厳しく生きる姿,あるいは,その指導的情熱が,生徒の個性に一つの“ゆさぶり”を与え、生徒自らが成長の喜びを自覚することではなかろうか。教えながら学び,学びながら教える“共生の教育”こそ自己教育力の揺らんであろう。
染める色は教育の現場で,確かな実態を捉え,学校挙げての教育目標樹立とその具現化のプロセスで十分な検討が望まれるのである。