福島県教育センター所報ふくしま No.88(S63/1988.10) -001/038page

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(巻頭言)

学校経営部長 近 藤 博 之

主 体 連 動

学校経営部 近 藤 博 之


 臨教審ショックのまま教育改革がスタートしてしまうのではないかと心配でならない。今ここで教育について深く問い直し,それぞれが「自分にとっての臨教審」を確かなものにしておかなければ,同じことを再び繰り返して,学校教育不在の21世紀を迎えてしまうかも知れないからである。

 明治16年に著された『改正教授術』には,今日言われている「個性を生かした学習」「主体的な学習」「体験的な学習」「学習の仕方」「基礎基本の習得」「学習意欲の喚起」等々のことが端的に述べられている。100年も以前の明治の時代から一つの体系をもって「一歩一歩二進メ」「授業ノ目的ハ生徒ノ学ビ能フ所ノ者ナリ」「五官ヨリ始メヨ」「巳知ヨリ未知に進メ,一物ヨリー般二及べ,有形ヨリ無形二進メ」「教科ハ元基ヨリ教フベシ」「諸心カヲ開発スベシ,最初心ヲ作り後之二給セヨ」等々と提唱されてきた事実に驚きを禁じ得ないのである。それぞれが営々と努力を重ねてきた今日の教育状況に対して,臨教審は,その画一性・硬直性・閉鎖性を指弾したのである。何が欠けていたのであろうか。

 「学習の個別化」が大切であるという。しかし,「現職研修の個別化」を聞くことはほとんどない。校内の現職研修では,ベテランの先生も初任の先生も,当然のこととして同じレベルの研修成果が期待されることがはとんどである。「学習についての学習」が必要であるという。しかし,「現職研修についての研修」を聞くことははとんどない。研修にいきづまったときどう対処すべきかを知らないまま,主題研究に取り組んでいることが多い。「学習の仕方」が重要であるという。しかし,「学習の仕方が位置づけられた授業過程」を聞くことはほとんどない。学習の仕方が身についていないので主体的な学習がなかなか成立しないという話はよく耳にすることがある。何が欠けていたのであろうか。

 私は,主体的に関わり共生していく生き方に欠けていたのではないかと考えている。与えられたもの,決められたもの,当然そうすべきもの,義務として背負わされたもの,として,誠実に処してくることが多かったのではないかと考えている。主体的に自分の意志で連動することに欠けていたのではないかと考えている。臨教書の指摘する画一性・硬直性・閉鎖性の根底にあって,最も提起したかったのは,この「主体連動」そのことではなかったかと思われてならない。「主体連動」のないところには,意欲も創意も期待できないし,新しい教育課程を支えていくことも困難であろうと思われる。

 トインビーは,「人間には多種多様な天賦の才があり,初めは単なる潜在力に過ぎないが,刺激され,訓練され,実際に使われる機会が与えて有効な実体となる。」と教育の本質を論じている。個性重視・生涯学習・主体対応の教育改革を迎えて深く共感するところが多い。私にとっては,次のような児童・生徒像が,「主体連動」して求めた教育改革のスタート台に立つキーワードである。

 ・自分らしさを大切にする児童生徒を育てたい。

 ・共に生きていく児童生徒を育てたい。

 ・主体的に対応のできる児童生徒を育てたい。

 ・感性の豊かな児童生徒を育てたい。

 ・自然と親しむ児童生徒を育てたい。

 ・深く好きになる児童生徒を育てたい。

 ・友達づき合いのできる児童生徒を育てたい。

 ・NEXTの分かる児童生徒を育てたい。

 ・マニュアルの読める児童生徒を育てたい。

 ・心身の疲れを感じない児童生徒を育てたい。

 「主体連動」の生き方をするためには,課題への「自分の解答」をひたむきに実践していくことが不可欠である。上述の児童生徒像は.教育改革への「自分の解答」の序章であり「主体連動」の証である。


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