福島県教育センター所報ふくしま No.101(H03/1991.11) -001/038page
巻頭言
素人と玄人
学習指導部長 佐 藤 英 昭
過ぎた日のことだが,茸採り名人との出会いがあった。老齢の名人は,かなりの速さで山道を進むが汗をかくことはない。無論息ぎれもしない。目的地に着くと,やたらと歩きまわることもなく,ゆっくりと周囲を凝視すると,やがて丁寧な足どりで一点にひざをつく。落葉の重なりを一枚一枚,いとおしむように取り除き茸を採る。茸は群生するのだろう。一直線状であったり,円状であったり,一か所でかなりの収穫に恵まれる。
汗もかかず息ぎれもしないのは,自分の歩き方で歩くからだという。また,素人には見えない茸を見つけるのは,多くの失敗を繰り返して山を知るようになったからだという。
ところで,新学習指導要領が告示され3年目を迎えた。いうまでもなく,教育課程審議会の答申に示された四本の柱を基本的に踏襲し,21世紀を志向した改訂である。
学校では,児童・生徒の育成に向けて,特色を生かした教育課程が編成され,分かり易い授業設言十など,具体的方策に基づいた教育実践が展開されることになる。その教育活動の中で,小学校,中学校,高等学校の全てに「基礎的・基本的な内容の指導の徹底と個性を生かす教育の充実」(総則「教育課程編成の一般方針」第1款)を図るためには,教師自身の意識の変革がなされなければならない。このことは,学校教育が質的変換を遂げることにも結びつくものである。そして,児童・生徒が,人問としての在り方や生き方をとおして,自らの資質を育む中で人格を形成するために,今こそ教師の力量に大きな期待がかかっているときはなく,教師は,これらの要請に確実に応えなければならないであろう。
ふたたびところで。茸採り名人が,落葉の一枚一枚をいとおしむように剥ぎ,その所作の結果として茸を発見する過程は,何やら教師と児童・生徒とのかかわりあいに似てはいないだろうか。名人は,茸採りに関しては玄人であるから,茸をおおう落葉さえもいとおしむ。そして,「茸は,木の子。子は大事にしないとね」という気負いのない名人の言葉には,培われた年輪が感じられ,含むところがある。
名人が自分の経験から自分の歩き方を見つけ,山のありようを知り得たように,教師はたゆまない自己研鎖と修養をとおして,自分なりの教育の方法を見い出すことが大切である。そして,真撃に,誠意と熱意をもって児童・生徒とかかわりあうとき,そこに,児童・生徒のもっているすばらしい「こころの鼓動」が伝わってくることを疑わない。
何故ならば,教師は,名人芸をもちあわせていなくてもよいが,教育にかかわる玄人でなければならない,と思うからである。