福島県教育センター所報ふくしま No.104(H04/1992.8) -001/038page

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齋藤常修

巻 頭 言

「 ど う せ 思 考 」 次長  齋藤常修



 「どうせ思考」と言われるものがある。
○「(どうせ)オレは頭が悪いですよ。」  ○「(どうせ)自分にできるはずがない。」
○「(どうせ)おまえは怠け者だ。 」    ○「(どうせ)教えてもムダだろう。」
○「いい成績とりたければ(どうせ、とれっこないが)、今すぐやったほうがいいよ。」
わたしたちは、−そして、子供も−意外と「どうせ思考」に陥ることが多い。
この どうせ という思考は、いったい何が問題なのであろうか−。


 子供の学ぶ意欲の基盤となる自信や誇りは、自分の よさ とりえ に気づくことにより得られる感情である。新しい学習指導要領も、子供の関心や意欲などの内発的なものを大切にして、それを支え伸ばす指導を目指している。もともと教育というものは、個人が自分の能力や個性を生かし、幸せを求めるとともに、社会に貢献できる人間存在となるように組織的・継続的に援助していく家庭である。
 ところが、ある意識調査(都内 小学校4〜6年生男女の調査の結果によると、「自分の気持ちを理解してくれる人」、「自分を賞賛してくれる人」としてあげられた教師の割合は、ともに なんと3%に過ぎない というのである。(ちなみに、父母のその割合は、約70%、85%となっている。)どうやら子供は、教師から“理解されていない”“ほめられていない”とみており、そこでは子供と教師の共感・信頼関係は極めてうすく、子供を「支え伸ばして育てる」という働きが、残念ながら弱いと言わざるをえないようである。
 これは、どうも、「どうせ思考」と言われるふだんの思考・言動−冒頭の例文に代表される−の中に一因・遠因があるように思われてならない。
 子供自身の「どうせ思考」は自分のよさに気づき、能力・個性を生かすことにつながらず、将来の目標達成への意欲と努力を放棄することになる。一方、教師のそれは、子供の興味・関心や意欲を喚起・伸長させることはなく、また、子供の様々な能力や個性を生かすどころか、むしろ、それらを否定しその芽を摘み、未来への可能性を奪ってしまうことになる。
 教師の「どうせ思考」は、子供にとってまことに迷惑至極なものなのである。
 教師の「どうせ思考」の“転化したもの”(結果)が子供のそれではないか−もし、そうだとしたら、教師は二重の意味で罪作り(?)なのかナ、と考えるのである。


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