福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.120(H09/1997.2) -001/042page
◇◇巻 頭 言◇◇『六 然』
教育センター教育経営部長 佐久間 俊彦
平成9年1月1日、尊敬する先輩K氏より年賀状でこんな言葉をいただいた。
『自己超然(自己には超然(ちょうぜん))
処人 然(人に処すること 然(あいぜん))
有事暫然(有事には暫然(ざんぜん))
無事澄然(無事には澄然(ちょうぜん))
得意 然(得意には 然(たんぜん))
失意泰然(失意には泰然(たいぜん))』−『六然』より
恥ずかしながら『六然(りくぜん)』を初めて目にした私には、誰の言葉かも、その意とする〇然も解釈できない。広辞苑をめくり、『六然』の言わんとしていることを探る………これが1997年の年始めであった。
中国は明の時代、王陽明と同時代の人、崔銑(サイセン)の格言『六然』であった。
自分のことは物事にこだわらずに落ち着いて、
人に接するときは穏やかに、なごんで、
いざ有事となれば、ぐずぐずせずに生き生きと、
だが事なきときは水のように澄んだ心で、
万事うまくいっているときは静かに、あっさりと、
失意のときでも落ち着いて動じないで、
というものである。
昨年7月の中教審第1次答申の文中に、
「(前略)教育においては、どんなに社会が変化しようとも、『時代を超えて変わらない価値のあるもの』(不易)がある。豊かな人間性、正義感や公平さを重んじる心、自らを律しつつ、他人と協教し、他人を思いやる心、人権を尊重する心、自然を愛する心など、こうしたものを子どもたちに培うことは、いつの時代、どこの国の教育においても大事にされなければならない。(後略)※第1部「今後における教育の在り方」より抜粋
崔銑の『六然』は、まさに私たちの人生航路の不易の水先案内である。
子どもの心の貧しさが指摘され、心の教育充実が叫ばれているが、本当に子どもは感じる心を失い、心を動かすことを忘れてしまっているのだろうか。出会いで交わす笑顔や別れに流す涙を見ていると、子どもの心の大きな揺れ動きを感じる。そして、子どもの心は決して貧しくなっていないと言いたくなってしまう。案外、私たち教師は、子どもの心を大きく揺さぶり、心を耕すような教育活動を構想し、展開してこなかったのではないかと反省している。
「子どもの心は大丈夫?」の問いを、最近私は「教師の心は大丈夫?」という問いに置き替えて考えている。それは、子どもの心のありようは、子どもと深くかかわる私たち教師の生き方や子どもへの姿勢と深く結びついていると考え始めているからである。
崔銑の『六然』を座右の銘にしてすがすがしく新年がスタートした。