福島県教育センター所報ふくしま「窓」 No.121(H09/1997.7) -038/042page
随 想
青葉の季節、欅の森で
教育センター教育相談部主任指導主事 水谷由克
研究活動の機会を得て、週二回ほど、講義のために福島大学を訪れている。広い構内は欅並木や手入れの行き届いた樹木が美しい。晴れた日には、研究室の窓からは、安達太良も望め、窓下の芝生では、学生が何やら明るい会話を弾ませている。
担当する講義は、事例を資料にしながら、教育相談の心理について体験的に学んでもらうのがねらいである。教育学部の50名の受講生は、どの学生も真剣に講義に参加している。
講義の中で、私はいつもある問題にぶつかる。それは、教育相談という実践をべ一スにした講義内容が、学生たちにどれだけ理解され、定着するのかという問題である。言い換えれば体験的に学ぶということ、実感するということの難しさである。
「いじめ」や「不登校」について考える時、さらには、揺れる「子どもの心」に迫ろうとする時、どうしてもその核心に迫る道筋が途絶えてしまう。そして、学生たちの理解は、体験や実感を伴ったものとは言えなくなってしまうのである。
このようなことがある度に、私は、学生たちが学ぶ過程での体験や実感というものの意味について考えさせられる。
研究会などで先生方に話す機会がある。先生方は、自分の体験というものを辿りながら、私のったない話を実感をもって理解してくれる。これは先生方と私とに、教育活動という共通する体験があるからであり、思考力だけのなせる技ではないのである。
学生たちは、「いじめ」や「不登校」の問題に直面したことがあるのだろうか。そして、どれだけ揺れる「子どもの心」を実感したことがあるのだろうか。
考えてみると、私の講義は、もっと学生たちの体験や実感というものを掘り起こし、積み重ねていく作業が必要だったように思う。なぜあの時、講義の中で、学生との問の快い緊張の糸が切れたのかが分かったような気がする。
体験や実感こそは、生きた知識を生み、思考を発展させ、さらには生きた実践のべ一スになるものである。だからこそ、講義や学生との活動を通して「体験や実感を積み重ねる」ということをもっと真剣に考えてみたいと思う。
このことは単に講義内容の改善や工夫といったレベルの問題ではなく、教育活動の根本に関わる、深く大きな問題であるように思われるのである。
今年も、大学構内の欅は一段と鮮やかである、青葉の季節、欅の森で、学生たちとそれぞれの目指す教師像について、その熱い思いを大いに語り合おうと思う。