安藤重春 |
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未来へ向かって発展著しい、私たちの故郷、郡山市。だが、郊外へ目を向ければ緑豊かな自然が残る田園都市でもある。その郡山の原風景を愛し続ける一人の日本画家がいる。 |
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生立ち |
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八幡様の通称で郡山市民に親しまれている安積国造神社。明治45年、安藤重春はこの神社の宮司の家に生まれた。古代の国造の子孫を名乗る安藤家は、文化人の家系としても知られ、江戸幕末には幕府昌平黌の教授となった儒学者、安積艮斎を出した。いつしか画家への道を志し、東京美術学校への進学を希望するようになった安藤は、ある日、兄,貞重に連れられ一人の日本画家を訪ねた。旧制安積中学の先輩、荻生天泉である。天泉は大和絵の伝統を受け継いだ歴史画を得意とし、現在の日展にあたる帝展で特選をとったばかりの気鋭の画家であった。その天泉に、兄は、安藤の描いたスケッチを見せて聞いた。「弟は東京美術学校に合格できるでしょうか?」「こんな絵を描いていては駄目だ。」「では、弟は画家になれるでしょうか?」「それは分からない。なれるかなれないかは、やるかやらないか、という心で決まる。」この天泉の言葉に奮起し、また勇気付けられた安藤は、受験勉強に励み、東京美術学校日本画科への入学を果たす。昭和7年のことである。当時の東京美術学校の日本画教官には、川合玉堂、結城素明、松岡映丘、平福百穂、小泉勝爾らがいた。安藤は結城・小泉のクラスであった。 |
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日本画科の授業について |
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「先生は教科書のように理論だけをね、生徒には教えなかった。生徒のセンスのよさ、いい所ですね、これを引き出してやって、これを伸ばしてやる。実際に絵を描かせて伸ばしてやる。これがその方法だった。生徒はそれによって勉強する。だから非常に喜んで自分の良さを見い出した、見い出してもらった生徒は勉強する。だから勉強をしない子供は・・・子供だな。子供はなんにも先生と話はしない。だから5年間全然話をしないで卒業したのがいっぱいいるんです。これ、劣等性なんだ。成績のつけ方はね、非常に厳しかったです。やっぱり、その、理解したかしないかで点数をつけたんですよね。で、その点数は、学期の終わりにね、黒板に張り出すんです。厳しい学校でしたね、そういう点は。」 |
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