川俣町の文化財 -002/029page

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跡をはじめ,早期,前期の遺跡が飯坂,山木屋,小綱木,小神などに点在する。中期には遺跡数は増加の傾向を示し,後期,晩期になるとさらに増えほとんどの地域に分布する。広畑遺跡(大字羽田字広畑)は,縄文時代晩期終末の土器を出土した弥生時代への過渡期の遺跡である。

 阿武隈山地は縄文時代の遺跡が多い。特に川俣には110箇所の遺跡が確認され,分布密度は非常に高い。しかし弥生時代になると遺跡皆無に近くなる。このことは稲作文化を受容できる平担地がきわめて少なく,地理的な環境に原因があったのであろうし,古代までの開発が信達盆地や福島市周辺に比べて一歩遅れをとった一因ともいえよう。

 

双 六 山 火 葬 墓

〔所在地〕 川俣町大字東福沢字双六山6番地

 通称地震山の山塊から東方に派生した尾根が,田代川の形成した平地部に張出している。この尾根上に本遺跡があり,昭和52年6月,桑園造成中に発見された。尾根上の1号墓と南斜面の2号墓の存在は,「平地と川を臨む南面する高燥な荒蕪の地が古代墳墓の普遍的な占地」に合致している。

双六山1号遺構
双六山1号遺構

 1号墓は深さ0.5mの摺鉢状ピットから,口縁部を故意に破壊された灰袖陶器(長頸瓶)の骨蔵器と鉄釘2本が出土し,骨蔵器を河原石で囲んだ外部施設を持っている。2号墓は削土された遺構は明らかでないが,底部を穿孔した須恵器破片、墨書のある内黒土師器杯破片,鉄釘1本が出土した。この他に薬壺型須恵器破片と内黒土師器杯破片が採集されている。

 口縁部を故意に破壊された長頸瓶と底部を穿孔された須恵器は,古代火葬墓に埋置する骨蔵器に日常什器を転用する典型的な好例である。薬壺型須恵器破片も大きさから骨蔵器と想像され、2基以上の火葬墓が造営されたものとみられる。火葬墓の造営された時期は,内黒土師器杯の製法と灰袖陶器の類例である愛知県猿投窯出土の長頸瓶からみて,9世紀後半が想定される。

 火葬墓は前代の高塚古墳の造営が終えんし,仏教思想の火葬の風を採用したものであるが,古墳の造営数にくらべて極端に少なくなる。このことは火葬墓の被葬者が前代の古墳の被葬者


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