川俣町の文化財 -003/029page

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と異なり,特定の有力豪族者に限られたからであろう。藤沢一夫は「火葬墓の被葬者は,氏寺(私寺)を建立したような地方在住の普代氏族,郡衙の官人,ないしは里郷の長となったような階級に,仏教思想による火葬が流布していたことが認められる。火葬墳墓の流布の姿は,充実した律令制度の反映であったとみられている。」と述べている。

 川俣に前代の古墳が確認されていない現実と,充実した律令制度の反映による双六山火葬墓の存在は,8世紀後半頃から9世紀にかけて,急速に開拓が進展し充実したと想像される川俣の姿を示唆しているといえるであろう。

 

木 幡 山 蔵 王 経 塚

〔所在地〕 川俣町大綱木字陣具形山

 川俣町と東和町境の木幡山山頂に蔵王経塚がある。隠津島神社本殿の真裏に位置し,馬の背状山頂に南北にほぼ1列6基が造営され,昭和53年に発掘調査された。過去に何度か掘り返されてかく乱状態にあったが,積石と内部主体の石槨はかなり原形を保ち,凝灰岩製外筒破片4個分と施入呂の湖州鏡(方鏡),綱代地文円鏡,交釉陶,同水瓶,三筋壺,土師器などの残欠および破片と短刀,刀子,宋銭が出土した

木幡山経塚の積石状況
木幡山経塚の積石状況

 3号経塚の出土と考えられる奈良博物館保管の盛蓋式の被せ蓋をした銅板打物製経筒には,法華経8巻と思われる8個の経巻残塊が入っていたという。この経筒を凝灰岩製外筒に納め埋納した。経筒と外筒には銘文は認められていない。

 経塚は直経3m前後の規模で,円形が4基と方形2基がある。円形の3号経塚の構造は直経3m,深さ0.3mの浅拡を堀り、その中心をさらに一辺O.6m,深さO.6mの土拡を堀って,平板状の石で箱形石槨を組立て外周に木炭を詰めている。この石槨内に経筒を埋納し,封土として層厚O.45mの積石で盛上げている。石槨は地下式が2基と地上式が4基あり,地下式は地上式より以前に造営されたものであろう。

 経塚の北端には磐座とするにふさわしい三つに裂けた巨岩があり,奈良金峯山頂の蔵王権現


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