川俣町の文化財 -004/029page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

湧出岩にみたてられているようで,この立石遺石から土師器と宋銭が出土し,これは経塚造営に先行する祭祀遺跡と解される。これらの出土品と経塚から,平安時代末期に2期ないし3期にわたり造営されたことが理解できる。経塚は末法時になると経典が消減してしまうので,弥勒菩薩が出世する後代まで仏法を伝えようと経典を埋納した施設で,天台系寺院に経塚の造営が多い。

 この他に川俣には栗和田経塚(大字西福沢),西田山経塚(大字東福沢),小島経塚(大字小島)などがある。栗和田経塚は木幡山西麓の峯続き突端に位置し,西田山経塚は同じく北麓にあり,灰釉陶の経瓶を出土した13世紀初頭の造営とみられている。法相宗興福寺の荘園である川俣地方にも,平安仏教の天台宗の影響,すなわち木幡山治陸寺の宗勢の浸透を示している。

 

河 俣 城 跡(城ノ倉)

〔所在地〕 川俣町飯坂字城ノ倉

 川俣高等学校のある山塊が河俣城で,壁沢川が城域を囲むように東へ曲流し広瀬川に合流している。往時の壁沢川は五安(後庵)舘の北東を流れていたが,寛永年間の洪水によって五安と西光寺の間が崩れたと伝えられている。この二つの河川と谷を利用して設けた切通し(現町道頭陀寺線)で区画された区域が城域をなし,山上の詰の城と山麓の根小屋および五安舘が一連の機能を持っていたのであろう。城下を通る相馬,三春街道は伊達氏と相馬氏,田村氏の本拠地に通じる要路で,きわめて要衝の地に位置している。

河俣城(城ノ倉)遠景,川俣高校裏の高所が主郭部
河俣城(城ノ倉)遠景,川俣高校裏の高所が主郭部

 南北朝の抗争期に河俣城によった武将は明らかではないが,初め北党に与し延元元年(1337),相馬胤平によって攻略され南党の拠点となった。貞和2年(1346),南党の結城,南部氏らが北党に転ずると,北党勢は南党の拠点に総攻撃をかけ,河俣城は同年7月25日,畠山国氏勢によって攻落された。

 時は下り室町幕府と関東公方(関東府)との対立が激化する中で,応永20年(1413),伊達持宗は伊達の国人勢力を集め,大仏城(現福島市)を中心に関東方に反旗をひるがえし鎮圧されて


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は川俣町教育委員会に帰属します。
川俣町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。