川俣町の文化財 -005/029page

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いる。当時の幕府方の陸奥国諸将の中に河俣氏(正長元年―1428),川俣飛弾入道(永享10年―1438)の名がみえる。川俣を領有し河俣城に居した武将であろう。持宗の乱後伊達氏は一時衰徴し,河俣城は岩瀬領主二階堂盛興によって攻取られ草野氏が河俣城に居城した。一方旧領地の回復を狙う伊達成宗は,桜田久綱に命じて河俣城を攻めさせ応仁2年(1468)正月に攻略する。翌文明元年正月19日,再度草野氏に占拠されるが,久綱は奥山大蔵の加勢を得て28日に奪還した。この戦功により久綱は川俣四郷の地を賜り伊達家宿老に列せられ,以来桜田氏は河俣城を居城とした。天文16年(1547),親茂が天文の乱中に戦死すると庶家の西桜田氏が居城するが,永禄11年(1568),総領家の吉親(後の資親)は輪王寺に相馬氏と戦い,その戦功によって川俣の旧領地を復した。

 河俣城の縄張りは,主郭は標高290mの地点から上部を空堀と通路で囲んだ山上囲郭形式で,連郭式を基本にした郭配置がある。平時の居館の根小屋は諏訪神社周囲と考えられ,郭配置と土塁,空堀の痕跡が認められる。頭陀寺は敵を狭撃する外郭の役割を果たし,計画的に配置されていたのであろう。河俣城は約250年間川俣の地を守り続け,川俣の中世史のほとんどを秘めている。

 

中島の石塔婆(建武の碑)

〔所在地〕 川俣町字中島14番地

◎町指定史跡
中島の石塔婆
中島の石塔婆

 中島の碑として「小手風土記」や「信達一統誌」に記載されている石婆塔は、死者の冥福を願うために建てられた石造の卒塔婆で,石造供養塔婆,板石塔婆,板碑ともいわれ鎌倉から室町時代にかけて数多く造建された。普通は板状の石面上部に仏を表徴する種子,その下方に紀年銘,趣旨,願文,造立者名などが刻まれている。中島の石塔婆はもと谷沢川と広瀬川の合流する河畔にあったもので,「建武の碑」として昔から著名なものであった。建武銘の石塔は仏種子を失なっているが,痕跡から阿弥陀如来の種子とみられる。中央に「建武元甲戍十一,五日,仙海」(1334)と,「年」と「月」との字が省略されて年,月,日,


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