川俣町の文化財 -006/029page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

が刻まれている。仙海は掛田の修験といわれ彼の建てた石塔婆は他にもあるといわれている。左側の石塔は同じく自然石の面に大きな阿弥陀仏の種子があり,その下に「嘉暦二年丁卯五月廿六日」(1327)と刻まれている。鎌倉末から南北朝時代にかけての当地方は世情不安,戦乱が打ち続いた時代で,延元2年(1337)北畠顕家は多賀城から霊山に移り,その年10月,霊山を発して西上し和泉堺および石津に戦い戦死している。延元3年には河俣城(城ノ倉),霊山を中心として南北両党の攻防戦が激しく行なわれた。

 板碑は関東に多く東北地方にも多数分布しているが,川俣でも中世の板碑はこの他大綱木字高屋敷常楽寺跡薬師堂の嘉元2年(1304)の2基の他20基の存在が認められている。これらの板碑は中世の川俣地方の歴史,文化史上貴重なものである。

 

河 股 城 跡(舘ノ山,御影舘,牛ヶ城)

〔所在地〕 川俣町大字東福沢字舘ノ山

河股城の遠景,中央の最高所が本丸,右が二の丸
河股城の遠景,中央の最高所が本丸,右が二の丸

 戦国時代の川俣は伊達氏南端の領地で,勇猛を誇る桜田右兵衛尉資親が河股城に居していた。東は相馬氏,南は岩代の大内氏と領界を接し絶えず戦乱が続いていた。このような背景のもとに,資親の家臣安田勘左衛門を普請奉行として天正12年(1584),河股城が構築されたと伝えられる。

 本丸を中心に主郭と西郭,北郭,南郭により構成される複郭山城で,急峻な自然地形を利用した縄張りにより地形によって曲輪の配置が変化している。総じて東部は急傾斜面の防御正面で,西部は平担地を抱えた家臣団家敷の置かれた搦手であり,山続きの南方が退路に当る。広瀬川と田代川を天然の堀とし,勘左堰から導水した堀により池あるいは泥田堀を配し,堅固な防御線が確立されている。東西1.3km,南北1.2kmに及ぷ広大な城域である。このような巨大な城を築いたのも奥州征覇をもくろんだ伊達氏の南進の拠点として,大軍が篭城できる城を必要としたからであろう。

 伊達政宗は天正13年8月,川俣に陣を取り9月に岩代の大内氏を攻略し,翌14年4月,二本松の畠山氏を滅し天正17年には会津を征して奥州のほとんどを征するに到った。しかし翌18年,


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は川俣町教育委員会に帰属します。
川俣町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。