川俣町の文化財 -007/029page

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秀吉の奥州仕置によって会津を含め領地の南半は没収され,その地は慶長3年(1598),上杉景勝が領有した。同年,秀吉が没すると徳川家康と石田三成の反目が表面化し,家康側についた政宗は三成に与した上杉景勝を背後からけん制するため,同5年6月24日,白石城(宮城県)を攻めた。同じ頃,相馬駒ヶ峯城主桜田玄蕃基親(資親の子)は伊達に侵入し,河股城を攻落し飯野,秋山,大波,小島を焼払い大舘に陣を取ったが,24日河股城に引篭って戦い最後は城を開けて駒ヶ峯城に帰った。この陽動作戦は図に当り梁川,福島の上杉勢は基親の行動に釘づけされ白石救援に赴くことができず,政宗は白石城を手中に収めることができた。河股城は政宗の度々の合戦,あるいは作戦の重要な要として機能していたといえる。基親は元和元年(1615),政宗の庶子秀宗の伊予宇和島入部に従って駒ヶ峯城を去っていった。

 

川 俣 代 官 所 跡

〔所在地〕 川俣町字寺久保77番地の2

川俣代官所跡の碑
川俣代官所跡の碑

 川俣を中心とする小手郷は寛文4年(1664),70余年に及ぷ米沢上杉藩の支配を離れ幕領となり代官支配のもとに入った。次いで元禄16年(1703),町小綱木村中町松風山東円寺の隣地に川俣陣屋が設置された。川俣は古来交通,政治上の重要な位置を占めていたが,江戸期に入り絹織物生産の隆盛とともに幕府にとっての重要な財源ともみなされ,陣屋設置に至ったものと考えられる。陣屋跡は昭和47年に廃止されるまで県繊維工業試験場が設置されていた。

 川俣の代官支配は戍辰戦争により慶應4年(1866)7月,官軍の三春方面からの攻撃による大綱木境木口守兵の撤退,代官所役人の米沢への落延びにより,166年間をもって終末をみるにいたった。その間4人の予り代官を加え40人の代官に支配を受けていた。10年以上の代官3人を除くと平均4年の短期間であった。代官は年貢微収官としての性格が優先し藩政治と異なる所があった。役人の貢租の増微政策や成績主義などから誅求が起ることも少なくなく,凶作の年,享保14年(1729)に起った享保一揆も代官岡田庄太夫の暴政に対するものであった。このような代官支配の中で町内には,次のような石碑も立てられている。


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