川俣町の文化財 -010/029page
掲示した高札場(制札場)ははっきりしないが,「宝暦七年四月陸奥国伊達郡小神村明細帳」に「当村川俣ヨリ福島通ニ御座候,但シ上リハ当村御制札場ヨリ羽田村境迄拾五丁,鶴田村境迄五丁」とあるので春日神社近くの道路に立てたものと推察される。
義民 粂 八・元 蔵・久四郎の墓碑
〔所在地〕 粂 八 川俣町大字鶴沢字雁ヶ作 元 蔵 川俣町大字鶴沢字西ノ内 久四郎 川俣町大字鶴沢字柿ノ窪○ 松沢村 粂 八
慶応2年の信達大騒動の首謀者金原田村の八郎と共に,幕末の混乱期に活躍した氏家粂八は,松沢村字雁ヶ作の出身である。剛腹にして義侠心に富んだ粂八は,若くして村役人を勤め,常に農民の側に立って代官所役人と対立し,投獄されることも多かったという。信達騒動直後の慶応2年8月11日付の「日本廻文之事」と記された粂八の戦争反対(徳川幕府の長州征伐反対を意味する)の全国藩主に宛た廻状は,彼の憂国の熱情あふれる激文とし,面目躍如たるものがある。
その後明治4年2月川俣近傍に発生した明治新政府反対の騒擾事件に捕えられ,福島の牢舎につながれたが,事件落着と共に許され帰宅の身となった。しかし粂八の出獄を恐れて一服もられ,帰宅途中青木平において絶命し,死体となって帰ったと伝えられている。
粂八の墓は,実家の西方裏山続き大久保村境の峯に一族の墓地と共にある。大きな黒色の墓石の正面に「高徳院良孝居士」と筆太に力強く刻まれ,裏面に「明治四年十二月二十四日当家四代目俗名粂八 行年六十七才」としるされている。
○ 松沢村 元蔵・鶴田村 久四郎
明治維新後の世情不安に引続いて起った2年,3年の凶作と物価高は農民の生活を強度に脅かし,年貢の納入延期を願い出る状態となり,ついには夫食米借,種籾拝借歎願にまで発展し