わたしたちの梁川町 社会科しりょう - 055/086page 

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2.教育や文化の発展(はってん)につくした人々

(1) 三浦弥平(みうらやへい)(1891〜1965)

 三浦弥平は明治24年(1891年)4月、伊達郡白根(しらね)村字木ノ田(きのた)(今の梁川町大字白根(しらね)字木ノ田(きのた))の大きな農家(のうか)に生まれました。そして、白根尋常(じんじょう)小学校(今の白根小学校)に入学しました。白根尋常(じんじょう)小学校時代は胃腸病(いちょうびょう)で欠席することが多い体の弱い子でした。その後、梁川高等(やながわこうとう)小学校に入学しましたが、行き帰り約14kmの通学はつらく、また2年生の時リュキマスという病気になり、2年遅(おく)れで卒業(そつぎょう)しました。

 弥平は体が弱かったのですが、強い意志のち主で、いじめられたらやり返すほどでした。刈田(かった)中学校(今の宮城県の白石中学校)に進学(しんがく)すると、病気にうちかつために、走って通うようになりました。そして、秋の運動会の1,000m走で優勝(ゆうしょう)したことが陸上競技の道へ進むきっかけとなりました。
 早稲田(わせだ)大学に入ってからは競走部(きょうそうぶ)に入り、多くの大会に出場しました。

 第1回京浜(けいひん)マラソン大会(大正5年・1916年)で7位になり、第2回大会では3位、第3回大会では2位となりました。そして、大正8年の大学専門(せんもん)学校連合競技(れんごうきょうぎ)大会(今のインターカレッジ大会)では2時間52分24秒で優勝(ゆうしょう)し、その年の日本選手権(せんしゅけん)でも2時間39分40秒のタイムで優勝(ゆうしょう)しました。その結果(けっか)、第7回オリンピック・アントワ-プ大会のマラソン選手に選ばれました。

晩年の三浦弥平氏
晩年の三浦弥平氏

 大正9年(1920年)8月、ベルギーのアントワープ市で開かれた第7回オリンピック大会のとき、弥平は28才でした。マラソンには、17ヵ国42名が参加し、日本からは弥平のほか、金栗、茂木、八島が出場しました。成績は金栗が16位、茂木が20位、八島が21位、弥平は2時間59分37秒で24位でした。

 大会のあと、ドイツ体育大学へ留学(りゅうがく)し、4年後の第8回オリンピック・パリ大会に

アントワープ大会選手団(前列右より2人目)
アントワープ大会選手団(前列右より2人目)


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