わたしたちの梁川町 社会科しりょう - 056/086page
も続けて出場しましたが、この時は体調をこわして途申で棄権(きけん)しました。その後ドイツに残ってスポーツの勉強をしました。
その後、故郷の白根村に戻り、昭和4年(1929年)、3人の若者の協力を得てヨーロッパやアメリカのスポーツ施設をまね、宮城県境(けんざかい)にあるブナ山の山頂に青少年の体力作りと健全育成をめざし、オリンピック村をつくる計画を立てました。
ここにはバンガロー、テニスコート、スキー場、運動広場、牧場、人工池などがあり、生家に今でもある設計図(せっけいず)はとても大きなものです。
オリンピック村は、若者たちの体力作りや交流の場となりましたが、戦争がはげしくなり、閉村(へいそん)しました。その後、満州(まんしゅう)(今の中国東部)へわたりましたが、戦争(第二次世界大戦〉が終わってから故郷(こきょう)の白根村に帰りました。国会議員の選挙(せんきょ)に出たり、地域(ちいき)の青年を集めてマラソン大会を開いたり、私設(しせつ)保育所や公民館を開設(かいせつ)しました。また、白根体育クラブの育成を行うなど、スポ-ツ発展のもとを作り、住民の健康増進(ぞうしん)と交流に大きな役割(やくわり)を果たしました。
そして、昭和40年(1965年)4月24日、故郷(こきょう)の梁川町白根で80才でなくなりました。現在、梁川町出身のただ一人のオリンピック選手としてたたえられ、名前をとった三浦弥平杯(みうらやへいはい)梁川町ロードレース大会が毎年開かれて、第22回(平成13年度)になりました。
福島県初のオリンピック選手、三浦弥平氏の功績を記念し昭和55年から開催されている「三浦弥平杯梁川町ロードレース大会」。【資料】 ・オリンピックマラソンランナー 三浦弥平の軌跡「走る」 佐藤 昭男著
・ビデオ 「三浦弥平」
・三浦弥平写真集 〔白根小学校 024-577-0314〕