わたしたちの梁川町 社会科しりょう - 057/086page
(2) 太田良平(おおたりょうへい)(1913〜1997)
大正2年(1913年)7月、建築家(けんちくか)の長男として、梁川町に生まれました。小さいころは、近くのお寺にある「山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)」の書に感動し、書家になることを夢見ていました。しかし、小学校高等科(こうとうか)のとき、日本画家の新聞記事を見て、影響(えいきょう)され、自分もいつか帝展(ていてん)(日本で一番大きな芸術(げいじゅつ)のコンクール)に出してみたいと思うようになりました。
そのころから、ひそかに彫刻家(ちょうこくか)になろうと決めていました。
昭和6年、16才の時、「帝展の審査員(しんさいん)になろう。」と上京(じょうきょう)し、郡山出身の三木宗策の塾(じゅく)へはいりました。 その後、勉強を一生懸命(いっしょうけんめい)に勉強した良平は、昭和10年(1935年)「浴後」という作品で初めて帝展で入選しました。
昭和12年、良平は歌人の高村光子(たかむらみつこ)と出会い結婚(けっこん)して、三木塾から独立(どくりつ)して新しい生活をスタートさせ、いろいろな展覧会(てんらんかい)に続けて入選し、良平の将来(しょうらい)は大いに期待(きたい)されました。
太平洋戦争(たいへいようせんそう)がはげしくなり、昭和20年(1945年)、妻(つま)と子どもたちと故郷(こきょう)の梁川町へ疎開(そかい)しました。東京で作った作品のほとんどは戦争のために消えてしまったのです。戦争の終わった昭和22年、福島県では初めての美術展(びじゅつてん)が開かれました。その時は彫塑(ちょうそ)部門(彫刻の部門)がなかったため、翌年、荷車で自分の作品を持ち込み、福島県の美術界の発展(はってん)のために力をつくしました。その後は、梁川町や福島市で若い芸術家たちの指導にあたり、現在の福島県彫刻界(ちょうこくかい)のもとをつくりました。昭和23年には北村西望の門下生(もんかせい)となり、日展(にってん)に8回、帝展(ていてん)に6回入選し、日本彫刻界にその名を広めました。
そのころ、良平は、制作活動で悩(なや)んでいましたが、福島市にあるノートルダム修道院(しゅうどういん)の修道女の美しい姿(すがた)に心を動かされ、その姿を作品にしました。そして、修道女の作品をたくさん作り、様々(さまざま)な賞をもらいました。
昭和35年、若いころからの夢だった日展の審査員(しんさいん)になりました。