社会科しりょうわたしたちの梁川町-058/084page

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8.きょう土を開く
(1)砂子堰と東根堰
 伊達地方は、広い平地にめぐまれながら、山から流れでる川が少なく、水不足のために、たえず農民はひでりの害に苦しみ、水田の開発も遅れていました。
 梁川が上杉氏の領地となった1598年(慶長3年)ごろから水田の開発がすすめられるようになりました。
 まず、上杉氏のけらいで村役人だった、梁川の堀江与五右衛門と保原の渡辺新左衛門が藩の許しをえて、その年に砂子堰の開削にとりかかり広瀬川の水を取り入れ、梁川から保原の方までひく計画をし1604年(慶長9年)に延長15キロにのぼる水路を完成させました。

イラスト

〈工事の様子〉
 工事は大変難しく東根山麓の段丘をうまく利用して、新田から上保原まで南流(押し上げる形となる)させるという工事をやってのけたのです。水の取入口も現在の山野川地内に決まるまでは何度も変えていますが村の人たちはこうした努力と工夫に対して「伊達の逆水」と呼んで称賛を惜しみませんでした。
〈用水路の完成〉
 用水路の完成によって、新田がひらかれ灌概区域は15村700ヘクタールにも及びました。その後、70年たった1674年(延宝2年)に堰の大修理を行いました。そして、この工事の時に時間通水制度という方法を使いました。これは下郷(堰本や梁川など)が3日半・上郷(大田や保原など)が4日半ずつ交代で水を引くという方法でした。その決まりには、樋の大きさ、通


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