社会科しりょうわたしたちの梁川町-060/084page

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(2)西根堰

 昔、阿武隈川をさかいにして、東の方を「東根郷」西の方を「西根郷」とよんでいました。東根郷に作られた堰(用水路)を東根堰、西根郷に作られた堰を西根堰とよんでいます。

 (1)名前のおこり
 西根郷の名は、1000年ほど前からあって、国見、桑折のほか飯坂、伊達、梁川などの一部もふくみます。これらの町の水田をうるおす水のほとんどは、上堰と下堰から取ります。そのためこの堰は、西根堰とよばれています。

 (2)作られたわけ
 今から350年ほど前、40もの村にわかれていた西根郷は、作物を作るのにはこやし分も多くよい上地でしたが、水不足でほとんどの土地はあれていてわずかの水田もすぐに日照りの害をうけました。人々はなんとかしてすぐそばを流れている阿武隈川や摺上川の水を使いたいと考えました。

 (3)堰作りのようす
 この地方に水をひくことは800年も前から考えられていましたが、水を引くことはむずかしく何回も失敗しました。土地の高低を見分けるのが一番むずかしく機械もなかったころに、人々の先頭にたってこの仕事のさしずをしたのは、信夫、伊達両郡の代官の古河善兵衛と桑折の佐藤新右衛門などです。
 土地の高低は、夜にちょうちんを立てて調べ、作るところをきめ、水をひく土地をほり、その土を堤防に使いながら仕事は進められまし心すべて人の力で、くわ、つるはし、とうぐわを使いもっこで運び、かたい岩や石は、た金と金づちでこわすという苦しい仕事の毎日でしたが、水がひけるという喜びでみんな一生懸命に働きましたので下堰は、350年ほど前に、上堰は340年ほど前、飯坂の摺上川から水をひいてできあがりました。人々は、いきおいよく流れる水を見てだきあって喜びました。
 西根上堰には、岩盤が固く工事には大変苦労させられました。そのうち特に「取入口の岩ばんのかべ」「かたがりの難所」があげられます。
 穴原の取入口あたりは、岩がそそりたち固いかべになっていてそこに洞門をほるわけですから実にむずかしい工事でした。今から300年ほど前のことであるから爆薬などはなく、「つるはし、すき、くわ、石切のみ」の道具を用いて大岩石にいどんだわけです。今でも洞門の壁に、当時の「のみのあと」がさざなみのように残っています。
 取水口から洞門を掘り続けていくと(約400メートル)「堅刈の難所」につきあたりました。ここは、岩石が特別にかたく「石ノミ」を使うことができずに掘ることができなくなりました。
 そこで、トンネル工事をあきらめて、摺上川ぞいに岸壁をけずってそこにさんばしをつくり、


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