保原町町政要覧 -018/034page

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歴史と文化が香るまち

春の保原薬師堂。桜の名所としても親しまれている。
春の保原薬師堂。桜の名所としても親しまれている。

先人達がいまに宛てたメッセージが いきいきと聞こえてきます。

 保原には、縄文・弥生・古墳時 代の土器や石器・住居跡などが町 内のあちこちにあり、古くから人々 が住んでいたことがわかります。 また、五〜七世紀と推定される大 泉みずほ古墳群跡は、方墳・円墳・ 前方後円墳が集中する大変珍しい 遺跡です。

 鎌倉時代初期には、伊達家の始 祖・伊達朝宗が源頼朝から伊達郡 を拝領し、高子岡城を築きました。 小高い丘にあるその城祉から伊達 平野が一望できます。

 また、現在の陣屋通りの北東に は保原城が築かれ、戦国時代には 伊達氏の家臣・中島伊勢が、江戸 時代には上杉景勝の家臣・大石氏 が居城したと伝えられています。

 城ノ内、鉄炮町などの地名は、 城下町の名残りをとどめています。

 寛保二年(一七四二)には、白 河藩(松平氏)の代官所として保 原陣屋が設けられ保原地方の一七ヶ 村(約二万石)がこの支配に属し ました。このころ、毎月五と一〇 の日に町通りに市が立ち、生糸や 真綿が売買され、保原は商人のま ちとして大きく発展しました。

 また、渡辺新左衛門は、梁川の 堀江与五衛門と共に、大変な苦労の末、慶長十年(一六〇四)砂子(いさご) 堰を築きあげ、保原地方の肥沃な 田畑の基礎をつくっています。

                 

盛んだった文化活動

 保原町は、文化活動も盛んでし た。熊坂覇陵(はりょう)(一七〇八〜一七六 四)と息子の台州(たいしゅう)は、漢学の造詣 が深く、民間の学問所「白雲館」 を開いています。ここでたくさん の子弟の教育にあたっただけでな く、著作出版活動も盛んに行いま した。覇陵が創始した保原の名勝 「高子二十境」の漢詩が天明八年 (一七八八)に発表されると、大 きな反響があり、全国の知識人か ら「二十境」の漢詩が次々に寄せ られました。これらの漢詩は今に 伝えられ、二十境の景勝地ともど も、保原町のすばらしい文化遺産 となっています。

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保原町の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。