努力の人信夫山-002/008page

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るようになった。この人の紹介で、栄は、十五才のとき、小野川部屋という小さな部屋に入門した。
 昭和十五年五月、本名の「本間」で初土俵をふんだ栄は、二つの白星(勝ち星)をあげた。次の場所でも白星を二つ取れば、序の口へと進むことができる。家族や保原町の人々は、本間の活躍を期待し、一日も早く昇進して幕内へと進むことを願っていた。
 ところが、期待されていた次の場所を目前にして、本間に思わぬ事故が起こった。けい古中に大けがをしてしまったのである。右足の付け根の関節がすっぽりと抜けてしまい、もはやすもうはあきらめなければならないとさえ思われた。
 だが、けがなどでくじける本間ではなかった。医師から、「当分は安静にしていなければならない。」と言われていたのに、持ち前の負けん気で土俵に上がったのである。そして、見事に二つの白星を勝ち取ったのである。この活躍には、担当した医師さえ驚いたほど、普通では考えられないことであった。
 きせき的な復活を果たした本間は、もくもくと努力を重ね、序の口、序二段、三段目と順調に勝ち進んでいった。入門して四年後には、三段目での優勝を果たすほど実力をつけていたのである。
 この優勝で幕下に進んだ本間にとって、十両は、もう少しで手のとどくところに近づいていた。本間を応援する人々の期待も一段と大きくなり、けい古にも一段と熱が入るようにな


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