努力の人信夫山-004/008page
そのけい古というのが、ずいぶん変わったものであった。左手を利き手の右手と同じように使えるようにするために、米つぶをはしではさむ練習をしたり、バランスをよくするために一本歯の下駄で電車に乗り、つりかわにつかまらずに何時間も立ち続けたりしたのである。仲間からは、「そんなけい古が役に立つものか。」と笑われたりしたが、吾妻山は、自分で考えた練習法をうたがわず、一人もくもくとけい古にはげんだ。
三年ほどして、独自のけい古の成果が一気に表れ始めた。シコ名を「信夫山」と改め、気分を一新してのぞんだ四度目の十両の場所で、十勝五敗と見事な成績を上げ、晴れて幕内への昇進を果たしたのである。さらに、幕内での始めての場所でも、十一勝四敗と見事な成績を上げた。もう、だれも信夫山のけい古を笑うものはいなくなっていた。
信夫山は、その後もさらにけい古にはげんだ。身長一七六センチ、体重一〇五キロと、力士としては小がらな信夫山は、人の何倍ものけい古で小さな体をカバーしょうと考えたのである。鉄下駄や鉄のバットで筋力をきたえたり、うでに包帯をはさんで脇が開かないように