霊山町の文化財 -006/023page

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「霊山」……南北朝争乱の舞台のひとつ

 日本の歴史上、大動乱の1つの時代といえば14世紀ではなかろうか。鎌倉幕府が滅亡して天皇親政が復活したが、朝廷の分裂によって公家統一を願う後醍醐天皇の南朝と、武家政権確立を目指す足利尊氏の擁立する北朝との間に凄惨な戦いが続いた。建武の中興で、陸奥国司となり多賀城に入っていた北畠顕家は、強まってきた北朝の勢いに押され、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて延元2年(1337年)要害の地、霊山に移った。まもなく顕家は後醍醐天皇の要請にこたえ、10万の兵を率いて上洛しますが、延元3年(1338年)、和泉国石津浜(現在大阪・堺市)の戦いで戦死。21歳の若さでした。
 顕家死後も霊山城は南朝方の拠点として堅塁を守りましたが、たび重なる北朝方の猛攻に抗しきれず、正平2年(1347年)ついに落城。このときひとつの建物も残すことなく焼失し、現在は礎石が残るのみとなっています。

霊山神社
霊山神社
 杉小立に囲まれた古屋館にたつ社は、明治14年(1881年)に、南朝の忠臣北畠親房、顕家、顕信、守親の四卿を祀るために造営。
明治18年(1885年)特旨をもって別格官弊社に列せられる。
 現在の本殿は昭和15年(1940年)の再建。

霊山城跡
霊山城跡

北畠顕家
北畠顕家の像(萩生天泉筆〉
 (霊山町掛田 佐藤健一氏蔵)

1331 元弘の変 後醍醐天皇笠置山に移る
1332 後醍醐天皇隠岐に流される
1333 後醍醐天皇隠岐脱出、京都遷幸
    顕家陸奥寺となり義良親王を奉じ多賀城に入る
1334 建武中興
1336 顕家、足利尊氏軍を破る(十二月)
1337 顕家、義兵親王を奉じ多賀城より霊山城に入る(一月八日)
    顕家、霊山城を進発西上の途につく(八月十一日)
1338 顕家、高師直と阿倍野に合戦
    石津にて戦死(享年二十一歳)
1339 後醍醐天皇、義良親王(後村上天皇)へ譲位
    親房「神皇正統記」を著わす
1340 顕信、字津峰に入る
    霊山・字津峰二城を保つ
1346 左京権太夫家兼霊山城に入る
1347 藤田城落城する(七月)
    霊山城落城する (九月)
1353 宇津峰城落城する
1354 北畠親房死去(享年六十二歳)
1356 足利尊氏死去(享年五十四歳)
1392 南北朝の統一成る


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