霊山町の文化財 -007/023page
「霊山」……養蚕のまち
本町の掛田は、かつて蚕のまちとして隆盛を極め、その名は日本国内はもちろん、遠く海外まで知れ渡っていました。日本で最古の養蚕技術書といわれる「養蚕茶話記」(1766年)の著者、佐藤友信を生んだのも、また養蚕の改良に大きく貢献した先人を数多く輩出したのも掛田でした。明治14年(1881年)には、わが国最初の民間養蚕教育機関である「掛田養蚕伝習所」を開設するなど、掛田は江戸時代以降、常に日本蚕糸業界のリーダー的な役割を果たしてきました。
明治10年代は、掛田生糸の最も盛んな時期で、明治14年(1881年)には第2回全国蚕糸業共進会が横浜に次いで掛田で開催され、国内は言うに及ばずヨーロッパからも多くの人々が集まりました。掛田の蚕糸や繭、絹などは、こうした国内博覧会だけでなく世界各地の博覧会にも数多く出品され、蚕種は遠くフランスやイタリアなどにも輸出されました。また、シカゴの世界大博覧会に生糸や広幅正絹などを出品したことから「掛田折返糸」は、アメリカにも大量に輸出されるようになるなど、掛田は「日本の掛田」として、一大蚕糸王国を築くに至りました。
輸出用商標 (霊山町掛田 佐藤健一氏 福島県文化センター歴史資料館寄託)《養蚕茶話記》
明和3年(1766年)に、「養蚕茶話記」を著わした佐藤友信は、享保3年(1718年)陸奥掛田村(現、霊山町)に生れた。佐藤家の祖は、伊達家に仕えた瀬成田村館主と伝えられる。3代常信の時伊達家を辞し、同村河尻(現、掛田字川尻内)に移住、開発地主になったという。
この「養蚕茶話記」は江戸時代中期、日本で有数の養蚕地となった信連地方の養蚕技術を示す代表著作といえる。この中で、友信の父正信時代には養蚕帳11冊、享保12年(1727年)以降の、兄春信時代には養蚕帳が35冊もあった(現存してはいない。)と記してある。また兄春信の跡を継いだ友信にとって、父と兄が遺した記録が養蚕経営を営むうえにも、また「養蚕茶話記」を記すうえにも、大いに参考になったと記している。
著者・佐藤友信は、天明6年(1786年)1月26日69才でこの世を去った。