りょうぜん 小学校社会科資料集 -042/056page
(2) 産業の発展につくした人びと
かつて掛田(かけだ)は、「蚕(かいこ)の村・生糸(きいと)の町」としてさかえ ました。掛田(かけだ)の涼(すず)しい気候(きこう)と土地が桑(くわ)にあい、小国(おぐに) 川(がわ)の水が生糸にあう等の条件(などじょうけん)がよかったからです。
毎年洪水(こうずい)になやまされた農家が洪水(こうずい)を防(ふせ)ぐために 苦労(くろう)して桑(くわ)を植えたり、苦労(くろう)して養蚕(ようさん)の改良(かいりょう)に力を つくす等(など)の努力(どりょく)が発展(はってん)を支えたのです。蚕業(さんざょう)の発展(はってん)の様子(ようす)
今(いま)から300年ほど前の1670年、「登世糸(のぼせいと)」として遠く京 都まで出荷されました。村の市(三と八の日)に生糸が とりひきされ、秋葉神社(あきばじんじゃ)の祭日(さいじつ)(7月28日)の大市(おおいち)は有 名(ゆうめい)でした。
その後、蚕の品種改良(かいこひんしゅかいりょう)※1・製糸法(せいしほう)※2が研究され、掛田 の佐藤家で「赤熱」(せきじゅく)という有名な品種(ひんしゅ)を作り、佐藤久之助(さとうひさのすけ)が さらに改良(かいりょう)して世間(せけん)に広めました。
1772年、幕府(ぱくふ)から「蚕種本場(さんしゅほんば)」の免許(めんきょ)をもらい、掛田の養(よう) 蚕(さん)は、全国的に有名になっていきました。1853年「掛田座(ざ)く り糸」がアメリカに輸出(ゆしゅつ)され、世界進出が始まりました。生 糸の品種改良(ひんしゅかいりょう)も進み糸目(いとめ)のそろわなかった座繰(ざぐり)糸を、掛田の 安田利作(やすだりさく)が改良(かいりょう)しました。「掛田折(お)り返(かえ)し糸」として1897年 (明治30年)すぎまで輸出(ゆしゅつ)されました。
※1 目的にあわせて種のせいしつをかえていくこと。
※2 蚕のまゆから生糸をつくる方法。