りょうぜん 小学校社会科資料集 -043/056page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

 国内(こくない)では、1878〜1887年(明治11〜20年)に掛田生糸が もっともさかんでした。
 早飛脚(はやぴきゃく)※1で、横浜生糸相場(よこはまきいとそうば)の木版(もくはん)ずり新聞(しんぷん)「内外生糸商況日報」(ないがいきいとしょうきょうにっぼう)※2を4日で運ばせ、生糸の値段を調べました。 外国の生糸商人の地図には、横浜(よこはま)のつぎにKAKEDA(かけだ)が くわしくかいてあり、掛田は日本を代表する町だったので す。
 掛田の問屋は12から13けんありました。「市」の日は、 全国の問屋が、蚕種業(さんしゅぎょう)と養蚕農家(ようさんのうか)をかりて店(みせ)づくりをしま した。
 店先に屋号(やごう)をそめたノポリをたて、セリ師(し)や仲買人(なかがいにん)で賑(にぎ)わいました。第一回全国蚕糸業共進会(だいいっかいぜんこくさんしぎょうきょうしんかい)が横浜(よこはま)で開かれ、 1881年(明治14年)、第二回全国蚕糸業共進会(だいにかいぜんこくようしぎょうきょうしんかい)は掛田村で 開かれました。
 有名人、山高帽(やまたかほう)にせびろ・ステッキ姿(すがた)の外国人(がいこくじん)などが、 遠く横浜(よこはま)から人力車(じんりきしゃ)を使ってやってきたのです。 1881年(明治14年)には全国初の養蚕を教える学校「掛                    田養蚕伝習(かけだようさんでんしゅうじょ)所」が開かれ、北は北海道(ほっかいどう)、南は九州・沖縄(きゅうしゅう おきなわ)か らも生徒が集まり、養蚕(ようさん)と製糸(せいし)の教育を受けていきました。 1889年(明治22年)には「機業伝習所」(きぎょうでんしゅうじょ)も開かれ、掛田は、 蚕種(さんしゅ)・養蚕(ようさん)・製糸業(せいしぎょう)とあらゆる面で「きいとの町」として 有名なところでした。
 しかし、長野県(ながのけん)や群馬県(ぐんまけん)などで、どんどん機械化(きかいか)が進むのに対して、掛田は機械化(きかいか)が進 まず、その後、掛田の生糸はだんだんすたれていきました。
※1急用を遠くへ知らせたり荷物をとどけたりする仕事。
※2 商売にかんけいの多い記事をあつかったむかしの木刷りの新聞。

輸出するときの商標
輸出するときの商標
輸出するときの商標
輸出するときの商標
輸出(ゆしゅつ)するときの商標(しょうひょう)


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は霊山町教育委員会に帰属します。
霊山町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。