つきだて−社会科しりょう−-054/067page
3.産業の発展(さんぎょうのはってん)(農業(のうぎょう)をさかんにする。)
月舘町は、山にかこまれ、平らな土地が少ないため、水田面積(めんせき)がせまく、米作りに変(か)わる農作物(のうさくもつ) づくりをする必要(ひつよう)がありました。
そこでおこなわれたのが、養(よう)さんやちくさんです。むかしの人たちは、養(よう)さんやちくさんをさか んにするため、どのような努力やくふうをしてきたのでしょう。(1)養さんをさかんにする
むかし、崇峻天皇(すしゅんてんのう)のきさきである小手姫(ひめ)が、月舘に来て、人々に暮さん、製糸(せいし)、はたおりを教 えたという伝説(でんせつ)が、古くから語(かた)り伝えられてきたほど養さんはさかんでした。
月舘町は山が多く、平らな土地が少ないため、人々は、山の斜面(しゃめん)をいっしょうけんめい平らに し、段々畑を作りました。そこに植えたのが「くわ」です。くわは、山のしゃめんでもよく育つ 木で、葉っぱは、かいこのえさになります。こうして、かいこのえさとなるくわ畑をふやし、暮 さんをさかんにしていきました。
今から90年ほど前になると、月舘町以外のところでも、養さんがさかんになりました。月舘町 の人々は、じょうぶで質(しつ)のよいまゆをつくるために努力(どりょく)をしました。新しいかいこの品種(ひんしゅ)を作り 出したり、むしろをしくかわりに、紙をしいて成長をはやくさせるくふうなどをしたことにより、 養さんはいっそうさかんになりました。
しかし、今から70年ほど前になると、ナイロンなどが開発(かいはつ)され、暮さんは、少しずつ行われな いようになってきました。現在では、数件(すうけん)の農家が暮さんに取り組んでいるだけです。※ みなさんの家でも、むかし養さんをやっていたかもしれませんね。家の人に聞いてみましょう。