つきだて−社会科しりょう−-064/067page

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 月舘町という地名は、「月見舘」という舘(やかた)の名前から生れました。江戸時代までは、各地にお城が あり殿様(とのさま)がいて、藩(はん)(今の県にあたる)を治(おさ)めていたのです。今から200年ほど前には、下手渡に陣屋(じんや)(城(しろ)をもたない大名(だいみょう)の屋敷(やしき))を開いた殿様がおりました。

手渡の殿様
 ずーっとむかし、はるばる九州(きゅうしゅう)は三池(みいけ)から下手渡に来た殿様がいました。この殿様・立花豊前守種善(たちばなぶせんのかみたねよし)は、幕府(ばくふ)の命令(めいれい)で下手渡藩十ヵ村一万石(ごく)を治(おさ)めることになったのです。殿様の陣屋(じんや)は、二階建ての御殿(ごでん)をはじめ、神社、御用(ごよう)部屋、武器庫(ぷきこ)、穀倉(こくぐら)、学問所、侍(さむらい)部屋などが建(た)ち並(なら)ぶ、りっぱなものでした。ここでの藩政(はんせい)は、文化3年(1806)から明治元年 (1868)まで三代、62年間続きます。
手渡の殿様
 二代目の殿様・立花主膳正種温(たちばなしゅぜんのしょうたねはる)は、天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)の時も死者を出すことなく、領民(りょうみん)に慕(した)われました。
 三代目の殿様・立花出雲守種恭(たちばないずものかみたねゆき)の時、明治維新(いしん)となりました。その後幕府(ばくふ)と政府の争い(戊辰戦争(ぼしんせんそう))で、陣屋は焼かれ、殿様は三池へ帰っていきました。
 やがて、藩政は県政に変わり、侍(さむらい)も殿様も姿を消しました。陣屋跡地(じんやあとち)(今は桑畑(くわばたけ)に、旧藩士(きゅうはんし)が殿様をしのんで建(た)てた懐古之碑(かいこのひ)があり、「手渡の殿様とご陣屋の物語」を静に伝えています。


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