月舘町伝承民話集 -014/200page

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九 人 塚 の 話

 今からおよそ六百年の昔、南朝の忠臣北畠顕家は陸奥の大軍を率いて、朝敵足利尊氏を討つため西上した。
時に延元三年の春のことである。顕家の出発した彼の霊山城には、広橋経泰らの部将が僅かに残兵を指揮して賊の攻撃を退けてあくまで城を死守していた。
しかし北朝の将相馬氏などは、毎日のように四方から霊山をめがけて攻めたて、夜となく昼となく火を放って僧坊を焼き、はげしい戦はいつまでもやむ時がなかった。
そのうち顕家が泉州の堺浦の戦に敗れ、石津で戦死した知らせが留守を守る霊山の城にも伝えられた。
一族郎党皆その非報にうちしおれ、もうこれまでなりと自害するもの、あるいは敵中に斬り込んで戦死をとげる者、夜にまぎれてあてもなく城を逃げ出す者など一日一日と城の中はさびしくなるばかりだった。
顕家の夫人を始め部将の妻、兵士の家族たち九人の婦人たちは何とかこの危機をきりぬけようとしめし合わせて、佐須をこえて南の方に路を求めて逃げのびた。しかし敵はあらゆる方面にわたって、落人をさがしては捕えたり殺したりして毎日血なまぐさい日が続いた。
九人の奥方や娘たちは疲れる足を引きづって、細布の三拍子入までたどりついた。
しかし空腹と疲労のためどうすることも出来なくなった。はげしかった霊山の戦と夫や親や子の行方を心配し、今後の自分たちのことを思うとこれ以上、生きていることのむなしさをひしひしと感じ始めていた。
ちょうどそこには、大きな笠松が一本たっていた。
九人の婦人たちは、その笠松の下に寄り集って折から降り出した雨をさけていた。
しかし雨は強くなるばかり、日暮れになろうとしているのに一向やむ気配もなかった。
部将の奥方が涙ながらに最後の話をつづけた。「もうとてもにげ切れない。この上


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