月舘町伝承民話集 -147/200page

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小手姫は常陸から来られた事。女神山の中腹堂平にお住まいなさった事。蚕糸機織りの産業を当地方に教え られた事。として47オで堂平で亡くなられた事。亡くなられたのは3月15日であった事。崇峻帝の刺 殺された日や寝殿に於て帰化人東漢駒に一突きに刺殺され、蘇我の手の者によって即夜倉梯岡に葬られた事まで詳しく書いていながら、小手姫の葬られた場所は書いていないのである。小手姫のお墓は、女神山の頂 上にあるという伝説は山麓の各部落に残っているが記録には見当らない。昭和44年(女神山出版後)飯坂町医王寺において発見、「小手姫は女神山中腹に於て亡くなられその遺骨は該山の頂上将軍岩の傍に葬る」 の記録が初めて見せられたのだった。

 福島市にお住まいの佐藤健次郎先生蔵書「福島県古事詳解」に福島県で一番早く絹織物を税として出した のは秋山郡である。秋山郡とは今はよくわからないけれども川俣と飯野の中間辺りだろうと思われる。続いて往古伊達郡に茶山という山があったのだが今ではわからないと記載されているが、秋山郡が郷とすれば地 形的にも川俣と飯野の中間の字句も当ってくるし、女神山の山桑から見ても絹の生産第一号は、小手姫に由 る直接ご指導を受けた人たちの数量はどの位だったかは分からないが、税として収納された時の歓呼が如何に大きなものだったかは想像に余りある事だったに相違ない。

 此の恩恵の産業が「天安2年(今より1014年前)には桑苗及蚕種類を上州に遣わし蚕飼いを教えたり。」 (小手濫觴記)と記載する程に、小手姫より350年後には伊達は蚕種の本場として蚕飼いの指導者として上州ばかりでなく四方に、広く活躍する程になったのであろう。

 大正十年頃に京都市綾部の村島渚氏は「全国蚕神考」という本を発刊されている。その一部を掲げ紹介す


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