月舘町伝承民話集 -149/200page
千々比呼命は、その後に小手姫の機織りの始祖として信仰した神を小手姫が亡くなられた後に伊佐奈岐、伊 佐奈美の二神と共に三柱とし、小手姫を別にお祀りしたのであろうと推測しているが小手姫が開いた山だから一名女神山ともいう。の字句は蓋し真実であろう。
修験道より見た女神山
め神山は今でも修験道では水雲山であり山全体をご神体として水雲山大明神である。この水雲山大明神をお祀りしたのは、役(イン)ノ行者小角といわれ、その小角にまつわる伝説も多い。上手渡小志貴神社宮司、渡辺淳 氏所蔵本に、役ノ行者小角が女神山(その当時の山名不詳)登山の縁起がある。その文による蛇頭石(現在カ ド神様)を祀り水雲山大明神の御魂として雨乞い石を祀ったといわれ、更に五行の神、火水木金土の神を祀り 併せて熊野大神をお祀りした事が記されている。役の小角は出羽三山史によると大和国茅原村の人で舒明4 年生まれ、幼にして鬼神を駆使人をして恐れしむ。故に若くして讒に逢い朝命により伊豆に流されその間、 鬼神を使って富士箱根を一日に飛行回峯したと伝えられる。前、熊野に入り行を続け熊野信仰を開く。「天智 4年7月出羽三山を回峯熊野大神を祀り後、奥羽の秀峰霊山を回峯して大和に帰ると」この天智4年は小角 の年36オに当たり、あらゆる深山幽谷に荒行を続け神の御姿を心眼に拝し仏陀の御影を行間に顕じ、そ の御心を感得して熊野修験の大道は打ち立てられつつあった時期の様に思われる。
役ノ行者小角の羽黒探訪が、こうした時季とすれば、更に崇峻天皇の皇子蜂子の数十年に渉る苦行の末に 出羽三山を開き諸人の苦悩を除き能除太子と尊称された根元を理解する必要があったからではないだろうか 当時羽黒山第二世は福島県信夫の里より蜂子皇子の晩年に弟子となって入山した弘俊である。年代を調べて