月舘町伝承民話集 -154/200page

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である。今後の調査にまつ外はない。

 ではこの政所において政治を執ったのは何時の時代であろう。その主権者はだれであろうか。徳川三百年 の幕藩体制下にはある筈もなし、織田、豊臣、戦国時代、北条、足利、南北朝、源平時代、奈良、平安時代 においても考えられない。奥羽の王者藤原、清原、安部の大家族と雖も中央政権を一応頭に置いての施策で あるから徒らに中央を刺撃する、こんな呼び名を以て地方一区域の政庁を遇する筈はない。とすると、相馬 に起って関東、東北を掌握して御所と称し政所と称して憚らなかった。平親王将門の外には考えられないの である。将門の勢威の下にこの地方一帯が支配された事は伝承にもないので筆者自身瞠目した。ほんとに驚 ろいた。だが将門は出羽三山に五重塔を寄進しているし勢力圏内には、真言宗の真福寺という寺も十数ヶ寺 創建していると伝えられているが、逆賊として、朝廷より汚名を受けて以来、殆んど破壊され或るいは改宗 したとも言われるし、寺号を変えたともいわれるが、現に東京神田の大社、神田明神は平の将門を祭神とし て祀られた事は人々の広く知られる通りである。

 ともあれ筆者の推定では、天慶3年(西歴940年)今から1034年前(将門死)その所の数十年間 統治されたのではないかという事は非常に興味深く、また糠田を中心とした政治、経済、文化、宗教、治安 の変遷なども改めて見直す必要がある様に思われる。今後更に調査を進めるにも幸に現地に屋敷跡や山上に 政所跡と思われる所も残っているので、その道の専門家の調査があれば、容易に解明されると確信している。

 平ノ将門の伝説を2、3紹介すると、ある日、将門を俵藤太秀郷が来訪して、食膳を共にした。その食事 中、将門が飯粒を2、3落したのを拾って食したのを見て、秀郷は共に談ずるに足らずと討伐の決意をした


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