「ふるさとの小径を行く」 -014/168page

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または大門先と呼ばれて松並木が続いていたということです。

 館主について信達二郡誌には仙台記からとして「天正ノ頃須田伯耆守親重居ル、伊達政宗ニ亡ボサルト云フ」と記されています。伊達軍記には伊達輝宗(政宗の父)もこの城を攻めあぐみ、城内からの内応によってようやく落したと記されているとのことです。落城後須田氏は政宗に仕えたとみられますが、須田家譜には「須田姓源、其先出自須田伯耆某、不知其先、以伯耆為祖、当家累世之臣也、伯耆居城伊達郡築館、天正十二年十月八日、為性山公殉死、伯耆某有二子、長日伯耆、次日蔵人、倶去当家、而住干会津若松、其裔今不詳之、(下略)」と記されていて、政宗によって亡されたことと相違しています。

 その後、天正十八年、蒲生氏郷と伊達政宗が共同で葛西、大崎の一撲を討伐しようとしたとき、政宗の家臣須田伯耆が氏郷に対して政宗の異心を告げたため、氏郷は単独で一撲を平定しました。須田伯耆がこのようなことをしたのは、父の道空が殉死したことを政宗が高く評価しなかったことを怨んだものといわれています(伊達政宗卿伝記資料)。このことがもとで政宗は伊達郡を蒲生に譲らざるを得なくなります。

 その後須田氏は蒲生氏に仕えたもののようで、「文禄三年高目録」の中に、上糠田、八百八十六石九斗五升、内三百十七石三斗九升、須田(須田伯耆カ)、下糠田、六百三十五石六升、源左、須田(須田伯耆カ)本地−福島市史2−の記録があります。

 慶長三年から当地方は上杉景勝の所領となり、当町ゆかりの小手六十三騎は梁川城主須田大炊介の配下に属します。月見館の須田氏がその後どうなったかはわかりませんが、上杉家臣として最上領の畑谷城攻めのときの組頭に須田伯耆の名が見えますので上杉家に仕えるようになっていたのではないかと思われます。

 信達一統誌には、「慶長年中上杉景勝卿の臣津田某


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